いってみた、やってみた

いってみた、やってみた

へなちょこ男が世界に挑む奮闘記(そして負けます)

ブリスベンの青空に思う

それは突然だった。

オーストラリアからメッセージが来た。

Call me.

ただならぬ気配がした。

それは遡ること3年も前になる。

私が大学院を休学していた時期のことであった。

大学院まで来たはいいものの自分のやりたいこととあまりにかけ離れたその内容、さらに私生活でのトラブルが重なって、すべてがうまく行かない時期だった。

次第に追い詰められしまいには精神、身体ともに限界、訳もなく泣いたり、不眠になったりしていった。

そこで大学院を休学することになったのだ。
大学院を休学したところで、正直気分が晴れたわけではない。むしろ同級生が着々と社会人生活に慣れていくのを横目に見ながら、"ほぼニート"となった私は焦りと情けなさとで余計辛い日々を過ごしていた。

そんなとき、ふと思い立って、かつてインストールしていた語学交流アプリを開いた。

語学交流アプリは、さまざまな国の人が自分の知っている言葉を教え合いながら相互に交流を行うことができる。平たく言えば'出会い系'のようなものだが、あくまで目的は語学交流だ。

以前そのアプリを使ったとき、様々な国の人と交流できたのがとても新鮮で楽しかったことをふと思い出したのだった。
"ほぼニート"になってしまった私は恥ずかしさもあって友人ともなかなか連絡が取れずにいた。
海外の人、さらに新たに知り合う人であれば私のこともすんなり受け入れてくれるのではないか、などという考えがあった。

そんな折、あるメッセージが届いた。

Hey. How are you?
We are currently in Japan.
Up for a drink?

日本を旅しているというオーストラリア人の男性からだった。
彼は兄と一緒に東京にいるのだが、あまり日本語もわからず見るべきところもわからないので少し退屈しているとのことだった。

一通目のメッセージで飲みに行こうなどと誘ってくるパターンは初めてで新鮮であった。しかも語学交流というよりはガイド探しのような印象も受けた。

しかし、学校に行くわけでもなく無気力で家から出ることもなかった私にとっては久々の"飲み"への誘いである。

相手が変な人だったらどうしようという思いも正直あったが、彼らにとって日本はアウェーであるし、何かあったら私のほうが土地勘を活かして逃げられるはずだ。

暇でしょうがないということもあったし、わずか数メッセージを交わした後、ものは試しと彼らと会うことを決めたのであった。

カフェで会った彼らは想像以上にフレンドリーで、驚くべきことにすぐに意気投合した。

彼らは大人になっても兄弟で旅行するのは変だと言われると笑っていたが、私も姉と旅行を何度もしたことがあると伝えると嬉しそうにうなずいていた。

さらに、大学院を休学しているという話をしたところ、"いいじゃないか" "またやりたいことでも探してみればどうか"と励ましてくれた。

私にとってはこれが何よりも嬉しかった。
自分の取った選択肢を肯定してくれる人がいるというだけで当時の私がどれほど救われたか表現できない。

カフェでの会話はあっという間に数時間に及んでいた。

その後居酒屋へ移動し、私たちは止まることなく酒を飲みかわしたのであった。

"時間があるなら明日、東京をガイドしてくれないか?"
そう言われるやいなや、"もちろん"と私は答えていた。

翌日は銀座や新宿など王道の名所をめぐり私が考え得る限りの東京観光を行った。どこで何をするにも彼らが支払いをしてくれた。悪いと思って払おうとすると、まだ若いのだから大丈夫といなされた。

まだ閉鎖前であった築地市場の店で夕食を食べたあと、彼らがスマホの画面を指差した。
"ここに行きたいんだ"
それはクラブの名前であった。

私はクラブなど入ったこともないし、なんだか怖いイメージもあった。
しかし、終日奢ってもらっていることもあるし、最後で突然案内を止めるのもおかしいと感じ、クラブに行くことになった。

私の人生初のクラブ体験はこうしてかなり予想外の形で実現することになったのだ。

彼らはいわゆるEDMのファンで、各地のクラブを回ることを楽しみとしていると言っていた。兄弟で旅行するのも共通の趣味であるクラブを目的としていたようであった。

初めてのクラブは刺激的で、興味深かった。爆音と揺れ動く群衆、日本にいるのに自分の全く知らない世界に飛び込んだようで何とも言えない恍惚感があった。

気がつくと明け方になっていた。
自分の殻を一つ破れた気がしてとても満足感があった。

その後、京都へ向かうという彼らと別れ、彼らの日本滞在最終日東京で再び会う約束をした。

京都から戻ってきた彼らに、外国人に人気だという鶴と亀の水引をつけた地元の菓子折りを手渡し、ふたたびカフェで他愛もない会話を楽しんだ後、成田へと旅立つ様子を見送った。

たった数日のことなのに、彼らは非常に深い印象を残した。

それは彼らが本当に人生を楽しんでいるように見えたからである。大学院を休学しくすぶっていて、何をやってもネガティブに考えてしまっていた当時の自分には彼らがあまりに輝いて見えたのだ。

その時、新たな大学院を受験しようという意欲が湧いたのであった。

彼らがオーストラリアに戻ってもチャットを通じて連絡は続き、ぜひブリスベンに来てほしいと度々言われるようになった。

新しい大学院に受かったらブリスベンに行く。

自分の人生を変える決断の先には"ブリスベンに行く"という目標ができていた。

それから数カ月はあまりに怒涛の勢いで進んでいった。筆記試験対策、論文作成、口述試験準備、毎日が大変ながらも充実していた。自分でも自分のことが信じられないくらいモチベーションにあふれていた。

語学交流アプリで出会った旅行者からここまでの影響を受けるなどということがあり得るのだろうか。全てが奇妙で、それでいて何か運命を感じさせるようなそんな魔法のような日々であった。

春、私はブリスベン行きの航空機に搭乗していた。

あまりにできすぎである。
秋口まで全てを諦めていたほぼニートが、新たな大学院に合格したのである、それもスマホアプリでの何気ない出会いのおかげで。

ブリスベン空港で数カ月ぶりにあう彼らは笑顔で私を迎えてくれた。
寛大なことに兄が家に泊まらせてくれるとのことであった。
"アプリで知り合っただけの人々"と言ってしまえばそれまでである。そんな人達を信用して、海外で宿泊するなどというのは今思っても少しクレイジーな気がする。
しかし、私はこの"アプリで知り合っただけの人々"に身を委ねることにしたのだ。
無事、兄の家に到着すると、渡した菓子折りにつけていた水引の鶴と亀が丁寧に飾ってあった。
嬉しくなって、これは長寿を意味するのだと伝えると興味深そうに聞いていた。

ブリスベンでの日々は自分の殻を一つ、また一つ、と破っていく新体験の日々であった。

オーストラリアの突き抜けるような青空。
こんな青空のもとで暮らしるからこそ人生を楽しもうという気持ちが満ち溢れてくるのだろうか、などと考えた。
仕事があるにも関わらず彼らは折々に時間を見ては、別々に、時には二人揃ってブリスベン市内や郊外の様々な所を案内してくれた。
もちろん、クラブにも連れて行ってくれ、ブリスベンにて私は海外クラブデビューを果たすこととなった。
数ヶ月前の自分からは想像もできない、偶然から始まったすべてが新鮮な人間関係。
こんなに不思議なことはあるのだろうか。そう考えずにはいられなかった。

休日に彼らが連れて行ってくれたブリスベン郊外の山から見渡したオーストラリアの大空と大地は圧巻であった。

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雲の合間にのぞく真っ青な空。光と希望に満ち溢れた空。


こんなことはふたたび自分の人生で起きるのだろうか。
たぶん、ない。
こんなにラッキーなことは人生でよくあるものだろうか。
たぶん、ない。

そんなことを考えていると、すべてが危ういバランスのもとで、しかし完璧なバランスのもとで動いていたような気がして、涙が止まらなくなった。

何故か急に泣き出した私を、彼らは静かに見守っていた。

See you again. Very soon.

ブリスベンを去るときに二人から言われた言葉である。

絶対にまた会おう。
深く心に誓ってブリスベンを後にしたのであった。
帰国後は連日のようにチャットをしていたが、徐々に落ち着き、ここしばらくは数カ月に一度近況を報告し合う程度になっていた。

あのブリスベン旅行から早くも2年か....

気づけば就活も終わり大学院も卒業である。

こんな折であるし、もうそろそろ久しぶりに彼らにチャットメッセージを送ろうかなと考えていた矢先であった。

Call me.
それは弟からであった。

真夜中だったのでテキストメッセージを送信して眠りについた。
翌朝、メッセージが届いていた。
My brother passed away.

すぐに目が覚めた。
夢ではないかと疑った。

しかし、これは現実であった。
電話を入れ、憔悴しきった弟と話をした。
事故にあったそうだ。

私の人生を変えてくれた彼らには感謝しかない。
あの偶然の出会いを縁と言わずしてなんというべきであろうか。

もっと感謝の思いを伝えることができたら良かったと思うばかりである。
兄との再会は叶わぬ夢になってしまったが、私はいつか必ずブリスベンに行きたいと思う。
あの青空の先に彼がいると信じているから。

夢と現実のはざまで−映画 フロリダ・プロジェクト−

紹介する映画

夢の国、ディズニーワールドのすぐそばには、夢のない現実が広がっていた。

カラフルなモーテルに住む少女の無邪気な視点を通じて、アメリカが抱える深い貧困問題を映し出す。果たして少女は夢の国にたどり着くのだろうか…


フロリダ・プロジェクト  真夏の魔法 [DVD]

 

繰り返す悪夢

私には、幼い時から何回も繰り返してみる悪夢がある。

それは、こんな内容だ。

ディズニーランドに行けることが決定する。

とてもうれしい思いで、実際に行く日までわくわくと待ち続ける。

しかし、急に「家族の事情」であったり「ディズニーランドが閉鎖」されたり、「チケットが消え」たりしてディズニーランドに行けなくなるのだ。

ひどいものだと、ゲートまで進んだのにも関わらずいけないバージョンまであった。

バリエーションはいくつかあったのだが、悪夢の一番中心となるのは、ディズニーランドに行けないという点だ。

目覚めるたびに気分が悪くなる。

何故こんな夢を繰り返してみてしまうのだろうか。

幼いころから疑問であった。

夢の国のすぐそばで

ディズニー・ワールドという夢。

「サンシャイン・ステート」フロリダは、アメリカ国内はおろか、世界最大のテーマパークであるウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートが位置する州だ。

どれくらい広いかというと、リゾート全体でなんと山手線内側よりも広大なのである。

日本からも、多くのファンが世界最大のディズニーパークへと向かっている。

当然、ここまで広大なディズニーワールドを一日程度では見て回ることが出来ないので、ほとんどの人は、近隣の宿泊施設に泊まりながら何日もかけて楽しむことになる。

ディズニーワールドという夢の国で素晴らしい時間を過ごすためには、多額のお金が必要となるのだ。

映画中、ブラジルからハネムーンで訪れたカップルが出るシーンがある。

新婦は、ディズニーワールドへハネムーンに行くことは小さいときからの夢だったと語る。

アメリカ中のみならず、世界中のあこがれを集める「夢の国」ディズニー・ワールド、フロリダプロジェクトは、そんなディズニー・ワールドには一生行けそうもない人たちの物語だ。

主人公のムーニーは母親とモーテル暮らしをする6歳だ。

夢の国、ディズニー・ワールドのすぐそばには、カラフルでチープなモーテルが乱立している。

ムーニーはそんなモーテルの一つ、「マジック・キャッスル」で暮らす女の子。

抜け道が見えない貧困が蔓延するモーテルでも、子供らしい無邪気さを失っていない。

母親は、パートをクビになったり、ニセモノの香水を押し売りしたり、何とか食いつないでいる状況。

街全体が、ディズニーワールドに寄生するような軽薄なビジネスに溢れている状況では、そんな母親の状況も例外的には感じられない。

映画中にたびたび出てくる街並みには、ディズニー・ギフトのアウトレット(公式ではないと思われる)、チケットショップ、そして仰々しい名前と色合いのモーテルが映し出される。

途中で苦しくなるのは、ムーニーと母が二人で、男性に「マジックバンド」を売るシーンだ。

家族でディズニー・ワールドへ向かおうとしている男性に、入場券として使えるマジック・バンドを、売る。

そしてムーニーがひとこと、”Have a nice day."

自分が絶対に行くことが叶わない夢の国へのチケットを売る、のはどんな気持ちだろう。

悲壮感のなさ

もっとも、ムーニーから悲壮感を感じることはない。

そういう運命を受け入れている、のか、はたまた諦めているのか、毎日毎日を好きに過ごしている。

それでも、友達の誕生日にはディズニーワールドの近くへ行って、ショーの花火をパーク外から眺めてみたり、ホテルに忍び込んでおいしいバイキングを食べたり、結局はディズニーの提供する「夢」のおこぼれにあずかっているのだ。

外から見ると厳しい状況であっても、生まれてこの方それを当たり前だと思って生きてきているムーニーにとって、ディズニーワールドの近くで夢のない暮らしをしていることの特異性は気にならないのかもしれない。

子どもは、驚くような適応性を見せる。

ムーニーの他にもモーテルで暮らす子供たちが出てくるが、皆いずれも明るく過ごしているのであった。

やっと行けた

この映画は意外なエンディングを見せる。

様々な状況が重なり、母親に養育能力がないということが明るみに出たため、ムーニーは施設に引き取られることとなる。

しかし、ムーニーは母親と別れることを拒み、引き取りに来た大人たちのもとから逃走する。

最後に頼ったのは、近くのモーテルに暮らす友達だった。

最後にあいさつに来たというただならぬムーニーの様子から、状況を理解した友達は、ムーニーの手を引いて、ディズニー・ワールドへと入り込む。

そして、ムーニーの住む「マジック・キャッスル」の名前のもととなっている「マジック・キングダム」にあるシンデレラ城を見上げたところで、映画は終わりを告げるのだ。

このエンディングは何を意味するのか。

このエンディングは近年見た映画の中でも最も興味深いものの一つであった。

ハッピーエンディングでもないし、バッドエンディングでもない。

ただ、ムーニーは最後に「夢の国」ディズニー・ワールドへたどり着いたのだ。

しかし、この最後のシーンはムーニーの想像の世界だと言われている。

そもそも、チケットもなしに、ディズニー・ワールドへ入ることができるわけもない。

さらにこのシーンでは、急にカメラワークが変わり、スマホ撮影したかのような映像に移り変わるのだ。

ムーニーはいつまでも「夢の国」に入ることはできないのだ。

ディズニーランドに入れない私

ここで、私の悪夢を思い出す。

いつまでも夢の国に入れないムーニーは、まるで私の悪夢そのものだ。

悲壮感のないムーニーだって結局追い詰められて最後に求めていたものはディズニー・ワールドに入ることだったのだ。

私がディズニー・ランドに入れない夢を見た朝に思うことと言えば「夢でよかった」である。

いくら気分が悪くなっても、結局私にとってこれは夢でしかない。

現実にディズニー・ランドへ行くチャンスはこれからいくらでもある。

結局、私にとって悪夢は悪夢でしかないのだ。

フロリダ州で貧困線以下にある子供は25%程度にも及ぶという。

呑気に輝く太陽、毎夜のショーと花火、フロリダのディズニー・ワールドのすぐそばには私の悪夢を現実として生きる子供たちがいるのだ。

英語コンプレックスが爆発した話

帰国子女なのに英語コンプレックス

私は、帰国子女だ。ニセモノの。

ニセモノというよりは、なりそこないである。

ktravelgo.hatenablog.com

要は、数年間アメリカに滞在していたものの、学齢期前だったこともあってみごとに英語という言語の習得が出来なかったタイプの帰国子女である。

なまじ英語圏でなければ英語ができないことの言い訳にもなったかもしれないが、アメリカにいてしまったという事実が私の心にはズーンと重石のようにのしかかっていた。

しかし、そんな状況だったからこそ、英語ができない悔しさに火が付き、英語を頑張るきっかけが生まれたのだ。

英語教育なんて、中学校に入ってThis is a pen. I'm fine thank you.を習うまで全く受けたこともなかったのだが、高校時代には一番得意な科目になっていた。

大学に入っても英語にはできるだけ積極的に触れ合おうと考え、細々と勉強は続けていた。

しかし、ふとしたところで、私が英語に対して生来持つコンプレックスが爆発してしまう瞬間があるのだ。

英語で授業

英語の授業ではなく、英語で行う授業のことだ。

私は、法学部の大学二年生になっていた。

その時には英語検定一級を持っていたし、英語の授業での成績もよかった。

そこで、英語で行われる専門科目の授業を学期で二つ履修することにしたのだった。

一つは、ドイツ人の教授による国際取引法の授業。

もう一つは、日本人の実務家教員による国際機構に関する授業だった。

どちらのクラスも20人前後の学生が履修していたのだが、私以外のほとんどが留学生、さらに彼らは知り合い同士らしく、いつも仲よさそうに固まって座っていた。

その状況だけでも非常につらいものがあったのだが、さらにつらかったのはドイツ人の教授の授業では英語で意見を求められることだった。

その授業では、ランダムに学生が指名され、教授の質問に答えなければならない。

留学生集団は、ネイティブがほとんどであったし、さらに周りも知り合いばかりということもあってか、非常にスムーズに堂々と解答を述べるのだ。

かたや私は、詰まりながら、自分でも何を話しているかわからない内容を何とか言い終える、というレベル。

恥ずかしいという思いがぐるぐると回ってしまい、次に答えるときには余計にパに食ってしまうという悪循環に陥っていた。

もう一方の、日本人教員の授業は、いわゆる講義スタイル。

伝統的な日本風の授業をただ英語で行っているという感じである。

こちらは、私にとっても理解しやすく、パニックに陥ることもなかった。

日本人教員は、国際的経験豊富でありながらもとても腰が低く、丁寧な人物で、私はとても良い先生であると思っていた。

先生の英語はいわゆる日本語英語であり、発音がネイティブ級だとか、流れるように話し続けるといったものではなかったのだが、国際的な場で日本代表として振舞ってきた自信をも感じられる英語であった。

しかし、ドイツ人教授の授業で、堂々と話していた留学生集団は、非常に退屈そうに授業を受けていた。

ある日のことである、私が教室に少し早めに入った瞬間であった。

留学生集団が、日本人教員について話しているのを耳にした。

「あの人の英語、聞き取りづらくて何言ってるかわからない。」

「この前、質問したら三回くらい聞きなおされたよ。英語分かってないんじゃない。」

「ドイツ人の先生の授業は面白いのにね。」

そう、彼らはほかならぬ日本人教員の英語について批評を繰り広げていたのであった。

コンプレックスが刺激される

私は、まるで私の英語が批判されているかのような気分になっていった。

ドイツ人教授の授業で全く気の利いた発言も的を射た回答も出来ていなかった私は、英語に対するコンプレックスを増大させていた。

そんな折に、あの留学生集団が日本人教員の英語について小馬鹿にしたような発言しているのを聞き、私の中で英語コンプレックスが爆発してしまったのだ。

悔しい。その一言に尽きる。

 

私は、英語でうまく言えない苦しさ、もどかしさ、を日本人教員に重ね合わせた。

ドイツ人教授の授業で、私は、相変わらず当てられ続けてもうまく答えられない。

さらに留学生集団が日本人教員へ取る態度もだんだんと横柄になっていったように感じていた。

日本人教員の英語について悪口を言っていた彼らは、おそらく私の英語力も絶対に軽視しているだろう。

英語で物事をうまく言えないことによって、彼ら英語ネイティブに軽視されるというのは何と悔しいことか。

英語が上手くしゃべれないことで、英語ネイティブから劣った存在としてみなされてしまうように感じた。

自分がバイリンガルに育った帰国子女になれなかった運命を呪ったのであった。

意外な結末

気が付くと、もう学期末が近づいていた。

私は、最後まで、ドイツ人教授の授業をうまく乗り切ることはできなかった。

当てられるたびにパニックになるし、うまく単語が出てこない。

悔しさをバネに変えて、復習は頑張ったし、自主的に本も読んでいた。

それでも留学生集団のようにうまく英語で切り返すことはできなかったのだ。

しかし、このドイツ人教授の授業では学期末テストというものがあった。

全員がクラスで、学期の内容についてペーパーテストを受ける方式だ。

テストは終わった者から順に帰って良いことになっていた。

私は、この学期末テストをクラスで一番に終え、帰宅した。

非常に簡単な内容で、記述欄も書くことは大体分かっていたので、あまり抵抗なく解くことが出来た。

あれほどまでに、流暢に答えていた留学生集団は私が終えた際もまだまだテストに取り組み中といった印象だった。

その数日後、今度は日本人教員の授業でテストがあった。

こちらは一斉開始、一斉終了のテストだったのだが、ドイツ人教授のテストと同様に内容が簡単だったのでほとんどの時間は暇であった。

ようやくテスト時間が終わったとき、留学生集団が話しているのを聞いた。

「両方の授業ともテスト難しすぎるよ。」

「授業範囲と全然違うものが出たよね。」

「ドイツ人の先生のテストがあまりに難しくて、こっちの日本人の先生で挽回しようと思ったけど無理なくらいこっちも難しかった。」

私は、この発言を聞いて衝撃を受けた。

あれほどペラペラと流暢に答えていた授業中の姿は何だったのか。

あれほど、日本人教員を馬鹿にしていたのにこの程度の問題も分からなかったのか。

衝撃が沸き上がって止まらなかった。

そう、私が一方的にコンプレックスを感じていたのは、彼らが「それっぽいことをそれっぽく」言うための英語技術なのである。

彼らはネイティブだからこそ多彩な言い回しを効果的に使う能力は非常に高い。

だからと言って、物事の中身を深く理解したり、それをペーパー上に書き表したりする能力が著しく高いわけではないのである。

その瞬間、私は自分が感じていた英語コンプレックスとは何だったのであろうと思った。

英語ネイティブだから、英語が上手く言えるから、自動的に彼らの知性が高いということにはならないのである。

そんな当然のことすら忘れさせてしまうくらい英語とは特別な言語であるようにも思う。

英語でうまく言いたいことを言えない人が劣った存在である、と一番思い込んでいたのは結局自分だったのかもしれない。

最後は、最近見つけた私のお気に入りの言葉で締めくくろう。

"Never make fun of someone who speaks broken English. It means they know another language."

-下手な英語を話す人のことを馬鹿にしてはいけない。それは、彼らが他の言語を知っていることを意味するのだから。-

ニューヨークのアンニュイな夏

私とワールドトレードセンター

あの夏、私はワールドトレードセンター跡地にいた。

ニューヨーク、ワールドトレードセンター跡地を、その日も多くの人が訪れていた。

ガヤガヤとうるさいニューヨーク市には珍しく、辺りには不思議な静寂が広がっていた。

私は、モニュメントから流れる水をただ見つめていた。

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跡地には、水を使った大きなモニュメントがある。ちょうど、この真上にビルが建っていたのだ。モニュメントの周囲は亡くなった方の氏名で縁取られている。

眠れない夜

2001年9月11日、私は夜更かしをしていた。

理由は思い出せないが、なぜか夜になっても眠れなかったのである。

両親がNHKのニュースを見ていた。

映像がニューヨーク、ワールドトレードセンターに移り変わる。

私は目撃した。

二機目の航空機がビルへと吸い込まれていったのを。

何が起きているのか誰も分からない。

分かっているのは、ただ、今目の前で航空機がビルに突っ込んでいったということだけだ。

そして、ワールドトレードセンターは、アメリカの夢は、崩れ落ちた。

アメリカの夢

私たち一家は、1990年代の後半、ニューヨーク市郊外に居住していた。

父の仕事の都合でアメリカに転勤することとなったためだ。

私の物心は、そのアメリカ居住時代に始まる。

ケミカル臭が強いキャンディーの味、ディズニーの歌、ピザの箱を支えるプラスチックの部品、裸足で芝生に出ると烈火のごとく怒られること(ライム病の危険があるため)、目を合わせるとニコっとするアメリカ人の笑顔、今でも深く記憶に残っている。

生活は、毎日が楽しみに溢れていた。

冬になったらクリスマス用にもみの木を買いに行き、春になったらイースターだと言って卵に絵を描くのだ。夏になったら、超高性能水鉄砲で水遊びをして、秋になったら永久に広がる黄色と赤の森を駆け抜けるのだ。

一年、一か月、たとえ一時間であっても、子供にとっては永遠に感じるほどの時間である。

そんな幼少期の数年を過ごした土地に繋がりを感じるのは自然なことではないかと思う。

だから、当時、私は自分のことを間違いなくアメリカ人であると信じていたようである。

無理もない、記憶のあるうちはずっとアメリカで過ごしていたのだから。

ある日、私たち家族でニューヨークの街中へ出かけることになった。

当時私たちが住んでいたのは、ニューヨーク市郊外の住宅地であった。

ニューヨーク市中心部までは通勤電車で一時間ほどかかる、のどかな所であった。

私はまだ幼稚園児であったし、あまり遠くまで出かけたことはなかった。

だからこそ、ふだん郊外の風景しか知らない私にとってニューヨークの街中を見られるお出かけはとても特別な日であったのだ。

街に出るまでの電車、街のにおい、早歩きの人々、なんでも新鮮だった。

森の代わりに広がるビル群、鳴りやまないクラクション、こんなに大きな街がこの世界には存在するのかと驚きでいっぱいだった。

お出かけの一番の目的は、父の職場、ワールドトレードセンターを見学するためだった。

不思議とこの時の記憶は定かではない。

せいぜい展望台に登ったくらいだったと思う。

しかし、ニューヨークには、ワールドトレードセンターというとんでもなくスゴイビルがあるのだ、と感じたことは不思議と覚えている。

失意の帰国

私達は、父を残して2000年に帰国することとなった。

父が仕事をやめ、家族でアメリカにいる理由がなくなったためだ。

仕事の引継ぎと転職活動のため、父はしばらく単身でアメリカに残ることとなったのだが、自分をアメリカ人だと思い込んでいた私は、日本へ「帰る」ことに激しく抵抗した。

自分の知らない「ふるさと」に急に帰れと言われても混乱するだろう。

当時、私の日本への思い入れは非常に薄かったといえる。ほぼ日本語で生活していたにも関わらずである。

子どもが何を言おうと決まったことは決まったことである。

私は、結局失意のまま「ふるさと」日本へ帰国し、わずかな幼稚園生活と、来る小学校生活を送ることになったのであった。

父は、2001年4月に完全帰国した。

これで、私たち家族のアメリカ生活は完全に終了したのである。

数年間、思い返してみればわずかな時間である。

しかし、私の幼少期にとってアメリカで過ごした数年間はあまりにも大きく、いまでもしっかりと心に刻まれ続けているのである。

そんなアメリカ生活の終了からほどなくであった。

ワールドトレードセンターは崩れ落ちたのだ。

父が仕事を辞めていなかったら、引継ぎが長引いていたら、私たち一家はどうなっていたのだろうか。

あの夏、ようやく思考がまとまったように思う。

小学生の私は、まだその気持ちを表現することが出来なかった。

あの夏、気づいたのだ。

私にとって、ワールドトレードセンターはアメリカの夢だったのだ。

アメリカで過ごした夢のような日々、それはワールドトレードセンターそのものだったのだ。

日本でNHKからワールドトレードセンターの崩壊を見つめていたあの瞬間、それはまさにアメリカの夢が崩れ落ちる瞬間だったのだ。

後から聞くと父は仕事を「辞めた」というよりは「辞めさせられた」に近かったようである。

母は駐在妻のゆったりした暮らしを失い、姉は友達のいる小学校を離れた。

アメリカの夢が崩れたのは私だけではなかったのだ。

 

あの夏、私は、ワールドトレードセンターにいた。

アメリカの夢の跡を見つめていた。

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アメリカの夢、は新たなステージに向かっている。ワンワールドトレーディングセンターは2014年、ニューヨークで一番高いビルとして、ワールドトレーディングセンター跡地に開業した。

バングラデシュ入国ってどんな感じ?

赤黒い大地と蚊

さかのぼること2015年、私は中国東方航空昆明ダッカ行きの便にいた。

中国での激しい乗り換えを経て、やっと見えてきた赤黒い大地。

ついにやってきてしまった、バングラデシュ

バングラデシュといえば、何が浮かぶだろうか。

正直なところ、バングラデシュといえばといってパッと出てくるキーワードはあまりないのではないだろうか。

場所を説明するときですらインドの隣、とかミャンマーの隣とかなんだか他力本願みたいな紹介をされることが多い。

果たして、バングラデシュはどんな国なのか。

期待と不安が入り混じる。

不安が増大するにつれ、期待がどんどんとどこかへ追いやられたころ、ちょうどバングラデシュの首都ダッカ、シャージャラル国際空港に到着したのであった。

まず、飛行機を降りた時点で感じるうだるような熱気。

日本ではまだまだ肌寒い3月上旬であったが、ダッカは日本の真夏を思わせる蒸し暑さであった。

熱帯の国なので、蚊には気をつけようと思っていたのだが、空港にいる時点でだいぶ刺されてしまった。

デング熱マラリア、考えたくもない病名が脳内に浮かんでは消える。

私を刺した蚊がクリーンであることをただ祈るだけだった。

降り立って入国審査に向かうまでの通路で、突然後ろから男性にガッと体を掴まれた。

ヤバい!

空港到着早々襲われるとは、なんて危ない国に来てしまったんだ!

そう焦る私に彼は一言

ウェルカムトゥーバングラデシュ!!

彼の声は蚊がいっぱいの赤黒い大地にこだまするのであった。

やる気あるのか入国審査

とても思い出したくないようなトイレで用事を済ませたあと、

やっとの思いで、入国審査場にまでたどり着いた。

私は事前にビザを取っていたので、アライバルビザ不要の列に並んでいた。

私の前には十数人ほどの列が2列ほど、そこまで混雑している様子でもなかったので、すぐに終わるだろうと感じた。

しかし、待っても待っても進まない。

後からアライバルビザの列に並んでいた欧米人は気が付くと入国していた。

ビザを日本で事前に取得した意味とは何だったのであろうか。

唖然である。

愚かにも私は目黒にあった旧バングラデシュ大使館に2回も赴いている。

1回目は11時30分の申請受付時間に15分遅刻し、見事失敗。

2回目は11時28分くらいに到着し、書類を提出。

見事、パスポートコピーを忘れ、近くのコンビニでコピーをするよう冷たくバングラデシュ人職員に言い放たれた。

はじめてのバングラデシュ人とのコンタクトはこんな殺伐としたものだったのだ。

受付終了まで残り2分しかなかったが、間に合わなかったらどうするのかと考える暇もなくコピーに向かい、泣きそうになりながら再び戻ったときには11時35分。

またまた申請に失敗、、という事態だけは防ごうと、息を必要以上にゼイゼイいわせ職員の方を見つめると、さすがに(嫌な顔をしながら)書類を受け取ってくれた。

そんな苦労をして手に入れたバングラデシュビザ。

それなのに、今やビザなし組の方が明らかに得をしているじゃないか*1

何故、入国審査にこんな時間がかかるのか。

入国審査官とGrand Prince Hotel

列を進むにつれて、入国審査に時間がかかる理由が理解できた。

入国審査官である。

隣の審査官とおしゃべりをしてみたり、退席してみたり、入国審査をやる気があるようには全く思えないスピード感なのだ。

もっとも、私含め外国人は、あくまでバングラデシュに入れてもらう立場。

文句があろうとも審査官になかなか強く言い出すことはできないのであった。

ついに私の番が来た。

私はビザだって持っているし、何より世界でも最高レベルの日本パスポート所持者だ。

さあ、どんどんと手続きを進めてくれと思っていたのだが。

入国審査官は突如覚醒したのか、私の書類に書かれた全ての項目を一つ一つ丁寧に読みだした。

そして私に質問するのである。

父親の名前は?(入国カードに父親の名前を書く欄があったのだ。まさにイスラム圏という感じだ。)

どうやって来た?

そして、一番トリッキーだったのはどこに泊まるか?であった。

ダッカで私が泊まる予定だったホテルはGrand Prince Hotelというたいそうな名前のところであった。

もちろん有名なホテルで入国審査官も知っているだろうと自信満々に答える。

しかし、何度名前を繰り返しても悲しいくらい通じない。

意味のないやり取りが永久に繰り返されるかと思った矢先、私とやりとりするのに飽きたのか突如ゴーサインが出る。

入国の時点でインパクト大である。

バングラデシュ人おそるべし。

ちなみに実際にGrand Prince Hotelに到着して気づいたが、ホテルは明らかに名前負けしている。

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空港で出待ちをする人々。コンサート後のジャニーズアイドルの気持ちだ。


ダッカ市内に入場

マリオカート バングラデシュカップ

空港を出ると、既にカオスが展開されている。

永久に鳴りやまないクラクション。

人、人、人の波と車。

教習所の段階で苦労した私などがとても運転できるコンディションではない。

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ほとんどのクルマには外付けバンパーがついていてほぼ車間距離0で走行する。

道路はボコボコ、通行人が突然出現、道路にバナナや甲羅が置いてあればマリオカートそのものである。

噂のGrandでPrinceなHotelにやっと到着したときには見事通行人と衝突して止まったのであった。

何を隠そう、バングラデシュは、都市国家や小さい島国等を除いて最も人口密度が高い国と言われている。

入国した瞬間から存分にそのポテンシャルを見せつけてくるバングラデシュに私は圧倒されっぱなしなのであった。

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マリオカート バングラデシュカップ会場。これでも非常に空いている。


 

*1:注駐日バングラデシュ大使館ホームページ URL: http://bdembassy.tripod.com/以前からバングラデシュでは、ダッカ・ジア国際空港(現、シャージャラル国際空港)到着後に空港でビザを発給する制度がありました。ただし、この措置は例外的な特例(バングラデシュ大使館や領事館がない国や地域等から来られた場合のみ適用)であり、 緊急の事情がない限り空港到着後のビザは発給されません。ビザがない場合、国外退去を命じられる可能性もあります。ビザは必ず事前に取得しておくことをお勧めいたします。

就活がうまくいかないときに思い出したある映画の言葉

紹介する映画

ある家族が、娘の「リトル・ミス・サンシャイン」コンテスト出場のため遥かな道のりを西へ西へと進む。

全く一筋縄ではいかない家族それぞれの抱える事情が、明るく優しいタッチで描かれる。見終わった後に不思議な希望が湧いてくる作品。

 
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人と比べられる苦しみ

私は就活でそれなりに苦労したクチだ。

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面接に臨むとき、作りたくもない笑顔を作る。

説明会では面白くもない話題に大ウケする。

知り合いたくもない他の就活生と世間話をする。

人生で「成し遂げたこと」「困難を乗り越えた経験」「目標に向かって全力で取り組んだこと」なんてあっただろうか。

聞かれれば聞かれるほど深まる自分への疑念。

何をやっても表面的で嘘っぽく、自分が薄っぺらい人間のように思えてきてしまった。

二次面接、三次面接、最終面接、内定、とだんだんと手ごたえをつかみ始める周囲の学生と自分とを比べ、劣等感だけが膨らみ心が荒んできていた。

何が楽しくて、こんなつらい思いをしなければならないのか。

何で人と比べられなければならないのか。

そんなことを考えていた時だった。

急にポッとアイデアが浮かんだ。

就活はミスコンだ。

 

人生はミスコンだ

"Life is one f***ing beauty contest after another." 人生は次から次へと続くクソったれなミスコンだ。

私が就活はミスコンだと思った背景には、映画リトル・ミス・サンシャインのこの名言がある。

ミスコンとはご存知の通り、女性がその美を競うコンテストのことだ。

審査員から、水着姿やドレス姿、インタビューなどをチェックされ、優勝者を決める一連のプロセスが世界中で開催されている。

とりわけ、アメリカはミスコン大国である。

衝撃的なのは、わずか5歳や6歳の子供ですら参加するミスコンが多数存在する点だ。

このような低年齢向けのミスコンは少しエクストリームな例だが(子供をミスコン漬けにする親のことをpagent momと揶揄したりする)、アメリカ社会の中では競争に向けて努力をすること、また、競争で勝ち抜くことに対して強いあこがれがあることは間違いがない。

アメリカのような超競争社会では、人々は常に人と競い合い、自分の価値を売り出していかなければあっという間に「負け犬」の烙印を押されてしまうというプレッシャーがあるのだ。

リトル・ミス・サンシャイン

リトル・ミス・サンシャインはそんなミスコンに7歳の娘が出場することになったある一家の物語である。

ニューメキシコ州からカリフォルニア州まで遥かな道のりを、古びたフォルクスワーゲンに乗って一家総出で行く。

しかし、家族それぞれがいわゆる「負け犬」と言われてもおかしくないような事情を抱えており、深い苦悩の中にある。

道中のドタバタを乗り越え、たどり着いた「リトル・ミス・サンシャイン」。一家に待ち受ける運命とは?

この映画を就活中に思い出したのは、私自身がとんでもない負け犬のように感じていたからであった。

何をやってもうまくいかないのではないか。

もう全て諦めてしまいたい。

そんな時に思い出したのが、「人生はミスコン」というこの映画の言葉だったのだ。

どうせ

アメリカは超競争社会だと述べたが、日本とて例外ではない。

受験だって、就職だって、結婚だって、人々はみんな競い合っている。

「みんな違ってみんないい」なんていう言葉が紡ぎだされた国とは思えないくらい現実は厳しいように感じる。

大企業じゃないから負け犬、給料が安いから負け犬、名声が低いから負け犬、口には出さないまでも就活にかかるプレッシャーはかなり大きい。

私が就活で感じた苦しみは、人生の中でつづく「次から次へと続くミスコン」の一つでしかないのである。

この企業は書類落ち、この企業は水着審査落ち、この企業ではドレス審査落ち、、、、勝利を得るために必死に笑顔を振りまく私はまさにミスコン参加者そのものであった。

そして、自分がミスコンの中にいるということを認識し始めると、なんだか自分の悩みがしょうもなく思えてきたのである。

ミスコンに参加していながら、自分が審査を受けることに憤る人はいない。

私は、自分から就活というミスコンに参加していながら、自分が審査を受けることに憤っていた。

審査を受けたくなければ、ミスコンに参加しなければいいのである。

そんなに人と比べられたくないのなら、就活をしなければいいのだ。

(自ら進んでとまでは言わないものの)就活というミスコンに参加することを決めてしまった以上は、審査員に自分の魅力を存分に伝えなければたんなる時間の浪費である。

そんなことを考え始めていたら、逆にこのバカバカしいミスコンの機会を存分に戦ってやろうという気持ちが湧いてきたのだ。

もちろん、認識が変わったからすべてうまくいったなどという単純な話ではない。

しかし、就活というものに対してなんだか重くつらく苦しいイメージだけを持っていたのが、これはあくまでミスコンだと考え始めるとかなり気楽になったことは確かだ。

後で知ったのだが、嫌な体験を受け流すための方法としてこのように認識を変化させることは心理学的にも極めて有効であるようだ。

リトル・ミス・サンシャインでの言葉は、就活に悩む私の大きなブレイクスルーのきっかけとなったのだ。

最後に、もう一つ映画中の言葉を紹介したい。

A real loser is someone who's so afraid of not winning, they don't even try.

本当の負け犬っていうのは、勝てないことをあまりに恐れる人のことだ。彼らは挑戦すらしない。

就活はつらいが、つらいと思っている時点で負け犬ではない。

なぜなら本当の負け犬は就活に挑戦すらしていないからだ。

 
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タシケント到着後ボッタクリを避ける唯一の方法

ぼったくりの巣窟

ウズベキスタンの首都タシケントに到着した。

到着早々、あまりにシンプルな作りの空港に驚かされ、これがウズベキスタンの玄関口かと衝撃を受けたのであった。
私の荷物は、成田から韓国、アシアナ航空を通じて送られていたわけだが、他の一般客と別ルートの扱いになっていたようで、やたら早くターンテーブルに現れた。
他の乗客がいくら待っても荷物を受け取れないのを横目に、私は、あっという間に荷物を抱えてタシケントへの第一歩を踏み出そうとあるき始めたのであった。
しかし、荷物を受け取ったはいいが、両替の場所が見当たらない。
受け取り場所と、空港出口はわずか数十メートルほどで、誰がどう見てもその間に両替ができる場所は存在していない。
困っていると、なんと、入国審査の方に引き返したところの右端に人が集まっているのを目撃した。
案の定そこが両替処であり、観光客がガヤガヤと列をなしていた。
看板もまったくなく、不親切とかいうレベルではないわかりにくさに、私はこれからのウズベキスタンの旅がどうなっていくか思いを馳せたのであった。
そんなこんなで125ドルもの大金をスムに両替し、私は国際空港を出発した。
空港を出ると、タクシードライバーの大群が私に群がってきた。
私は一番アグレッシブそうなドライバーから逃げ、少し遠くにいた朝青龍似のドライバーと交渉を始めた。
私の予約していたホステルは、空港から直線距離で7kmほどのところにある。
そんなところへ向かうのにドライバーは10ドルを要求してきた。
10ドルと聞けば大したことのないような値段にも思えるが、この国では大金である。
なにせ私がこれから行こうとしているホステルの一泊がそもそも10ドルなのだから、それと同じ値段をタクシー代に取られてはたまらない。
私は必死の形相で、そもそもドル払いをしたくないということ、さらに値段が高すぎることを伝え、朝青龍と交渉を続けたのであった。

交渉続く

私は、交渉を続けたものの、なかなか65000スムから値段が下がらない。

一度は他のタクシードライバーのところに行く素振りを見せたのだが、どうやらドライバー同士で結託しているのか、特に焦る様子もない。
私のようなひ弱そうな奴がいくら騒いだところでこれ以上は交渉が進まないであろうと察知した私は、納得がいかないながらもホステルに向かうことにした。
この時点で、空港を出てから30分近くは経過しており、私の荷物が早々に出てきたことなどほぼ何の意味もなさなくなっていたのであった。
タクシードライバーはそうは言ってもなかなかフレンドリーな人であった。
かつて日本人女性旅行者を長距離乗せたことがあったらしく、彼女と友達になってInstagramを交換したのだということを教えてくれた。
彼はとても日本が好きで、いつか日本にも行ってみたいと言っていた。
ちなみにここまでのやり取りは一応英語だが、基本的にはシンプルな数単語ずつでしか会話は成立せず、後は身振り手振りと、顔の表情だけで意思疎通を図っていた。ウズベキスタンではなかなか英語が通じず、これからも苦労することになるのであった。
無事、ホステルに到着し、ドライバーに交渉どおり65000スムを手渡した。
なんだが腑に落ちない感じであったが、とりあえずホステルにチェックインしないといけないのでこの出費はしょうがないと考えることにした。

Yandexという抜け道

ホステルにチェックインをして、受付のお姉さんにふと、空港からここまでのタクシー相場について尋ねてみた。

そうね、8000スムくらいかしら。
唖然である。
ボッタクられたのは良くわかった。
しかし、8倍もボッタクられるとはもはやいったいどういう気持ちでいればいいのか。
歌舞伎町でフルーツ盛り合わせを頼んだら20万円請求されたおじさんの気持ちだろうか。
2-3倍くらいは不愉快ながらも覚悟していた。
まさか8倍取られるとは。
ドライブ中の親日アピールは何だったのか。
金をバンバン落としてくれるカモの輩出国である日本はそりゃあ好きになるだろう。
これからも朝青龍は日本人から笑顔で金をふんだくるのであろう。
到着早々絶望的な気分になっていたところに、受付のお姉さんがひとこと。
「Yandexのサービス知らないの?」
Yandexとは、ロシアのインターネットサービスである。
ヤフーとかそんなのと一緒である。
旧ソ連圏であるウズベキスタンは何かとロシアとのつながりが多いのだが、そんなロシア系インターネットサービスであるYandexがタシケント市内ではUberのようなタクシーサービスを提供しているのだそうだ。
地元民に聞いたからには確かめなければならない。
ボッタクられ傷心の中にあった私は早速Yandexタクシーを使うことに決めたのであった。
使い方は簡単である。
アプリをインストールして、タクシーを呼ぶ。
ほぼそれだけの工程だ。
一応番号認証が要求されるのでそこだけは携帯キャリアの海外サービス等を見て少し注意が必要だが、基本的にはインターネット接続さえあれば即使用可能だ。
私は初日だけ、ドコモの海外パケットサービスを申し込んで、現地でsimカードを手に入れるという作戦を立てていた。
早速このYandexタクシーを使ってsim販売店へ向かうこととした。

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ナンバーとおおよその到着時間が出てくる。これに従って乗り込むだけだ。
目的地を設定すると、おおよその値段が出てくる。
大体市内のどこからどこに向かうのでも10000スム行くか行かないかくらいの値段だ。
私が先程払った65000スムがいかに高額であったかを再び認識したあと、タクシーを呼びつけることとした。
わずか2分ほどで到着した車は清潔でドライバーもなかなかフレンドリーな人であった。
目的地のアミールティムール広場まで10000スムほど、Uberと同様Yandexタクシーのドライバーはプロではないと思われるが、はっきり言って車は空港からのタクシーよりも大きく、乗り心地も良かった。
支払いは、一応クレジットもできるようだが、外国製カードは無理だとか、うまくいかないだとか色々と書いてあったので、100%キャッシュで行っていた。
一度だけ、相手がお釣りを持っていないことがあったが、ほとんど細かいお釣りでもしっかりと返してくれ、ますますYandex以外のタクシーを利用する理由がなくなっていった。

ウズベキスタンタシケントに到着する方へのアドバイスである。

まずはYandexタクシーをインストールしよう。

また、空港内で声を掛けてくるドライバーは100%ぼったくる気満々なので無視するか、自分には迎えがいるなどと言って巻いてしまおう。
空港内に車が侵入するためには数千スムほどかかるようなので、どうしてもそれを払いたくない人は空港の敷地から外に出てしまうことをおすすめする。
空港の敷地は大して広くないので、駐車場を突っ切っていけばすぐに車道である。
そして、そこからYandexタクシーを呼びつければわずか10000スムほどで市内のどこでも行き放題である。
もちろん、白タクに乗ってしまったとしても交渉の余地はあると思う。
私のような旅慣れていない人間は長時間の交渉を苦痛だと感じてしまうのだが、粘り強く交渉すれば8倍のボッタクリにはあわないのではないだろうか。
これからウズベキスタンを訪れる人たちにはぜひ、旅行の文字通り第一歩でつまずかないようにしていただきたい。