サマルカンドNo.1嘘ツキ男
サマルカンド、悠久の歴史を刻むオアシス
広大なウズベキスタンの大地を電車は駆け抜ける。
暑い夏であった。
首都タシケントからの特急列車シャルク号を降り、サマルカンド駅からミニバスで街の中心へ。
車内で日本語のガイドブックを読んでいると、男性が声をかけてきた。
「私は日本語を勉強しています。サマルカンドへようこそ。」
紀元前から様々な民族が行き来してきた「青の都」は、極東からの迷える旅人も優しく迎え入れてくれた。
想像を超えてくるサマルカンド。
私は駅からのミニバスを下車し、街の中心であるレギスタン広場に降り立った。
なんという風景であろう。
何回もガイドブックで目にした「ウズベキスタンと言えば」というべき壮麗な広場。
生で目にしたレギスタン広場は写真で見た通り、いや、写真なんかよりもずっと壮麗で、文化と歴史の重みを伝え続けているようであった。
私はそんなレギスタン広場のほど近くにホステルを予約していた。
グーグルマップで見る限り、レギスタン広場から徒歩1分。
こんなロケーションでありながら一泊1000円。
ガラガラと重いスーツケースを引きずりながらホステルの方面へと歩いたのだが...
着かない...
着かないどころか、どんどんと住宅街の奥地へと入ってしまう。
グーグルマップに書いてる場所は通り過ぎたはずなのだがそれらしい場所はない。
つまりはグーグルマップが間違っているということなのだろう。
流れ流れてたどり着いた住宅地は明らかにホステルがある雰囲気ではない。
この時気温は40℃近く。
ファッションショーでもするのかというくらいスーツケースに洋服を詰めたことを心から後悔した。
汗はダラダラ、そしてレギスタン広場から徒歩1分の予定が、気が付くと20分近く放浪していた。
死にそうな顔をしながらどうしようと困っていたところだった。
前方に地元民が立ち話をしているのを発見した。
日本で旅行している時ですら地元民に道を聞くなどほぼしない私であったが、あまりの暑さとホステルが見つからない絶望感から迷う間もなく声をかけたのであった。
スマホ上のホテルの予約情報を見せつける。
何やらウズベク語で私に質問する彼ら。
全く分からない。
すると一人の男性がスマホを取り出し、私のスマホ画面を見ながら何やら電話をかけている。
電話が終わると男性は、こっちに来いという手招きをする。
男性以外の立ち話メンバーはにやにやしながら私と男性が車に乗るのを見つめている。
これはまさか男性が私をホステルまで連れて行ってくれるということか?
知らない人のクルマにのっちゃダメってママに言われたんだけどな....
などと男性に弁明する間も語学力もないまま男性のクルマに乗り込む。
車が発進して3分程度経ったころ、私たちはレギスタン広場に戻ってきたのであった。
そして、広場から延びる細い小道に入ってわずか5秒ほど。
私はホステルに到着したのであった。
男性が電話でしゃべっていた内容を推測するに、
「このクソドアホが道間違えてとんでもない所に来てるんだけど、おたくはレギスタン広場からすぐですよね?しょうがないから今から車で送ってやりますよ。そうじゃないとこいつ行き倒れそうだし。ていうか地図あんのにこの程度の道間違えるとかマジでなんなわけ?よくそれで一人旅しようと思ったよね。全くこれだからゆとり世代は。」
とホステルのお兄さんに言っていたに違いない。
恥ずかしいやら何やら。
車を降り、記念の意も込めて持っていた日本の小銭を渡そうとしたものの、断られてしまった。
お金をもらうようなことじゃないよ、と言っているようだった。
サマルカンドに到着早々、何千年も続くこの土地の人々の旅人に対するホスピタリティを体感したのであった。
ホステル
ホステルに着くと、そこには私と同じ顔をした人が立っていた。
誇張ではない。
本当に私と同じ顔をしていたのだ(誇張)
ウズベキスタンに入国してからというもの、もろ旅人感満載で歩き回っていたのだが、何回か明らかに地元民から道を聞かれることがあった。
タシケントでSimカードを買いに行ったときも、窓口で当初外国人旅行者向けのパッケージではなく、地元民が普通に使うパッケージを勧められたこともあった(一言しゃべった瞬間外国人だとバレたためすぐに誤解は解けたが)
私はどうやらウズベキスタンで現地と同化できるタイプの顔らしい。
そんな私と全く同じ顔をした男性と言うのが、先ほど車で送ってくれた男性と電話で話していたホステルの管理人であるようだ。
彼はとてもフレンドリーだった。
こんな単純な道で、迷ってしまったドアホな私を哀れに思ったからか、はたまた、顔が異常にそっくりだったからか、それともシーズンがオフでほとんど泊まっている人がいなかったからなのか、私のことを良く気にかけてくれた。
昼間の観光を終え、夕方に宿に戻ると、お茶はいるか、部屋は大丈夫か、スイカは食べるか、などと声をかけてくれた。
年齢も近く、顔もやたら似ている彼はもっと英語の勉強がしたいと言っていた。
私に積極的に話しかけているのも英語の勉強の一環なのだという。
滞在二日目の夜である。
その時期、レギスタン広場では毎夜イベントが開催されていた。
カラフルな電飾と、舞踊を組み合わせた壮大なパフォーマンスが爆音で行われていたのだ。
私が宿泊していたホステルにも当然その音や光は届いており、サマルカンド滞在二日目の夜、私はレギスタン広場前へと繰り出すことにしたのであった。
夜に知らない異国の地で出歩くというのは、なかなか緊張するものだが、ウズベキスタン、特にサマルカンドのレギスタン広場周辺では、人通りも多く、観光客が夜中までうろうろしているためそこまで危険性を感じることはなかった。
おじさん登場
レギスタン広場へ向かう道すがらである。
おじさんにウズベク語で声をかけられた。
相変わらず、現地人だと思われているのか何やらべらべらとおじさんに話しかけられてしまった。
全く言っていることがわからないのでぽかんとした顔をしていると、
「ツーリスト??ツーリスト?」
とおじさんがおもむろに話しかけてくる。
あぁ、めんどくさい人につかまってしまった。
正直そう感じていた。
レギスタン広場周辺では観光客をターゲットにしたさまざまなビジネスが行われている。
気が付いたらタクシーでぼったくりツアーを組まされていたり、変なレストランに連れていかれたり、基本的に治安は極めて良いと感じた一方で、観光地にありがちなトラブルはサマルカンドにもしっかりと存在しているようであった。
おじさんはなおも私に話しかけ続ける。
私は適当な言い訳を考えて、おじさんの元を去りたいと思っていた。
そこで、「スーパーに水を買いに行かなければならない。」
とグーグル翻訳を使っておじさんに伝え、そそくさとスーパーの方へと歩き出そうとしたのであった。
しかし、おじさんは引き下がらず、近所のスーパーまで私を連れて行ってくれた。
おじさんは私が水を買うのを見届けたあと、おもむろに私のスマホでグーグル翻訳を使い始めた。
「明日、山に行きましょう」
え?
いやいやいや、怖すぎるやろ。
知らないおじさんに、知らない街で急に「明日、山に行きましょう」と言われたらあなたはどうするだろうか?
「博物館」とか「動物園」ならまだしも「山」である。
おじさんは「車で連れていく」とか言ってくるのだが、そういう問題ではない。
知らない人のクルマにのっちゃダメってママに言われたんだけどな....
山に連れていかれたら最後、身ぐるみはがされたうえで、口封じのため殺害、遺体はサマルカンドの大地に消えていくことに...などと想像は止まらない。
もちろんこのおじさんがそこまでの極悪人かどうかは分からない。
しかし、普通に考えて、夜中に道を歩いていていきなり出会ったおじさんと山に行くのはあまり賢明な動きとは思えない。
何とか断らなければ...そう思った私の解決策はこうだ。
「ごめんなさい、明日の朝電車でサマルカンドを発つのです。」
必死に考えた嘘だ。
翌日だってサマルカンドに泊まって観光する気はマンマンだったが、とりあえずこう言っておけばおじさんとてもう私を誘うことは出来ないであろう。
なんだか少し寂しそうな顔をしたおじさんであったが、何とかおじさんのオファーを断ることが出来た。
さて、本命のレギスタン広場でのパフォーマンスを見に行くか、と思い、レギスタン広場の方へ歩こうとする。
なぜかおじさんは一緒についてくる。
むげに振り払うのも、なんだか悪い気もするし、レギスタン広場はほぼ目の前だ。
何となく距離を取ったつもりであったものの、ものの一分もしないうちにおじさんとレギスタン広場に到着する。
おじさんは、レギスタン広場に着くと、そこに集まる人々にどんどんと声をかけていった。
よくわからないが、おじさんは近所に住んでいるらしく、レギスタン広場に集まっている近所の人々に声をかけているようであった。
なぜか私のことを笑顔で指さしながら「ツーリスト、ツーリスト」とそのご近所の人たちにも紹介していた。
この時点で、おじさんが「山に行きましょう」といったオファーは、シンプルにツーリストを珍しい所に連れて行こうという親切心からのものであったように感じるようになってきた。
そして、とどめを刺すような出来事が。
なんと広場にホステルの兄さんが現れたのである。
そして、おじさんと何やら親しげに会話をしているではないか。
ホステルの兄さんが私に言った。
「この人を知っているのかい?この人は私の友達だよ。」
苦笑いしかできない。
おじさん、、、あまりに怪しすぎるから完全に疑ってしまっていたのだが、あなたはサマルカンドの優しい地元民の一人であったのですね....。
おじさんはまだ何やらホステルの兄さんに話をしている。
ホステルの兄さんは言った。
「この人は君と一緒に山に行こうとしていたんだけど、君は明日サマルカンドを発ってしまうんだね。」
絶体絶命である。
何が絶体絶命であるかというと、
おじさんに私は翌日の朝サマルカンドを発つと嘘を言ってしまった。
しかし、ホステルの兄さんは私がまぎれもなく宿泊しているホステルの管理人であり、私が翌日もサマルカンドにいる予定であるということを、分かっていないはずがないのである。
優しさのためについた嘘が、今目の前で壮大な矛盾を生み出し、私はサマルカンドNo.1の大嘘ツキ男となってしまったのである。
しかし、そこで奇跡が。
レギスタン広場でのパフォーマンスが程よく盛り上がり、話をしている場合ではなくなったのである。
あまりの爆音に、私たち三人は会話を継続することが出来なくなった。
ホステルの兄さんは友達と待ち合わせをしていたらしく、私たちに手を振るとどこかへと去っていた。
おじさんと二人残された私は、その後パフォーマンスの写真やビデオをひとしきり撮り、宿へと戻ることにした。
なんだかまた寂しそうな顔をしていたおじさんであったが、私が寝るジェスチャーを繰り返すと、分かったというように頷き、手を振って別れの挨拶をしてきた。
翌朝のことである。
朝食を取ろうとホステルの下階へと降りるところであった。
ちょうどフロントにいるホステルの兄さんと出会った。
彼が一言、
「今日、君は出発するんだよね?これが君のレギストラーツィアだよ」
そして今日までの日付がしっかりと記入されたレギストラーツィアを私に手渡してきた。
レギストラーツィアとはそもそも何かというと、ウズベキスタンでは、外国人にホテルやホステルが発行する「滞在登録」証の携帯を義務付けているのである。
これは旧ソ連時代から続く慣行である。
平たく言うと、「何年何月何日に、この外国人は〇〇市の○○ホテルに泊まっていた」という証明書を宿泊先で発行させ、外国人が出国するときに、その証明書提出を義務付けることで、ウズベキスタン政府が、外国人のウズベキスタン国内での動向をチェックできるようにするという極めて迷惑なシステムである。
そしてサマルカンドNo.1の嘘ツキ男である私には、今日までの日付のレギストラーツィアが手渡されたのであった...。
つまり、昨日の夜、ホステルの兄さんには嘘はバレていなかった。
兄さんとて、一人一人の細かな宿泊予定など覚えているわけではなかったのだ。
しかし、兄さんも勘違いをしてしまい、私が今日サマルカンドを発つ予定だという前提でしっかりと私のチェックアウト準備を進めてくれたのであった。
完全にミスった...。
おそるおそるホステルの兄さんに言う。
「実は、昨日の夜勘違いしてて、、、今日じゃなくて明日出発だったんだよね...。最近疲れてて何日の何曜日か分からなくなっちゃってねハハハ....。」
またも嘘をついてしまった。
嘘をカバーするために嘘をつく。
なんてったって、私はサマルカンドNo.1の嘘ツキ男だ。
兄さんはこともなげに
「そうだったっけね。じゃあ新しいレギストラーツィアは明日渡すね。」
一件落着...である。
正直、サマルカンドの人々の優しさを舐めていた。
観光地で、スレた感じの人ばかりと思っていた。
しかし、一番スレていたのは紛れもなく自分の心。
そもそもあのおじさんは、ホステルの兄さんと間違えて顔がやたら似ている私に声をかけてきたのかもしれない。
そして私が旅行者だと判明すると、気を利かせて何か面白い所へ連れて行ってやろうと考えただけだったのかもしれない。
なんだか自分で自分が恥ずかしくなってしまった。
名実ともにNo.1嘘ツキ男の座を得た私は、無駄な背徳感と共に青の都を後にしたのであった....。
※結果的に大丈夫であったとはいえ、海外で知らない人についていくのは一般的にはやめた方がいいと思います。
昆明で混迷
それは大学一年生の春休みであった。
一年生秋学期のテストを終え、何気なく購読していたメールリストのとあるプログラムが目に入った。
バングラデシュに行きませんか?
なんだこれは。
タイトルに釣られた私はメールの中身を見ることにした。
そこでは、バングラデシュで行われているグラミン銀行系マイクロクレジットの実態を見学できるスタディツアーの募集がなされていた。
大学に入ったら、いろいろな国に行ってみたいなどと意気込んでいた私にとって願ってもない面白そうなチャンスだと感じた。
すぐに、コンタクトを取り、参加希望を出す。
先方から返信が返ってきた。
ご連絡ありがとうございます。
から始まり、詳細が記述されていた。
このスタディーツアーは日本の研究機関が主催するものであること、そして彼らが「現地滞在」をコーディネートすることがわかった。
「現地滞在」・・?なんでそんな書き方をするのだろうか?
最後にひとこと、当プログラムは現地集合、現地解散となります。
バングラデシュで「現地」集合、「現地」解散?
マジかよ・・。
この当時私は一人で海外に行ったことはない。
まして、いわゆる発展途上国に行ったことなどない。
大丈夫なのか、、などと冷静になってしまうと自分の性格上絶対に躊躇してしまう。
ここでは考える前に行動だ!
意味不明な積極性を発揮し、私は即バングラデシュ行きを決めたのであった。
バングラデシュまでの旅程
ダッカに行きタカッタ。
私が参加を決めたのは、「現地集合」のちょうど二か月ほど前。
航空券もちょうどよく値が下がっている時期だ。
しかし、当時長期アルバイトになかなか入れず、単発のアルバイトで食いつないでいた私には航空券代は痛手であった。
そこで、最安の航空券を発券するため、日夜Skyscannerと格闘していた。
当時の私には知る由もなかったのだが、Skyscannerには怪しい代理店も登録されており、航空券が実際に取れなかったという事件も多発していたようである。
私は、まさにビギナーズラックといったところで、Skyscannerでギリシャに本拠地を置くクソ怪しい代理店を発見し、そこから見事超安バングラデシュダッカ行航空券を手に入れたのであった。
行きはヨイヨイ帰りは怖い改め、行きも帰りも怖い。
ついに、来てしまった。
出発である。
神奈川県在住の私はもはや成田に来るまでで大方の体力を使い果たしてしまったのだが、本題はここからである。
まずは、成田から上海浦東空港までの旅である。
私の記念すべき一人初海外は、中国東方航空上海行となったのである。
上海までの旅は、正直言って楽勝であった。
中国系の航空会社なんて乗ったこともなかったし、そもそも中国に降り立つのだって初めてだ。
不安はいっぱいあったものの、いざ乗ってみるとそんなに変なこともない。
しいて言うなら、中国人乗客が圧倒的多数を占めていてすでにアウェー感満載だったことと、座席にモニターが付いておらず、機内に数台設置してあるモニターで、無音ギャグ番組を延々垂れ流していることと、機内食が日本発便の割には日本風の味付けではなかったことと、CAのお姉さんが完全中国語で話しかけてくることと、隣のおじさんがお粥をズズズズッとすすって食べていたのがゾッとしたことと、機体が良く揺れたことくらいしか気になることはなかった。
それくらいしか、気になることはなかった、、、。
たったのそれくらい、、、。
気が付けば上海。
目的地ではないとはいえ、初めて降りたった中国である。
少し興奮しながらタラップを降りる。
しかしぼやぼやしている暇はない。
すぐに北京行に乗り継がなければならないのだ。
ここでは、空港係員の女性が「北京」という看板を持って、北京乗り継ぎの乗客を誘導してくれていたため、それにただ従って歩いていた。
すぐに北京行の便に乗り込むことが出来た、もちろん中国東方航空だ。
成田から上海までの便の時点ですでにアウェー感があったが、上海発北京行となると完全中国ローカル便である。
相変わらず、機内にはモニターはついておらず、上海までの便ですでに見た無音ギャグ番組が垂れ流されていた。
オチが分かっている無音ギャグ番組を見るほど生産性のないことはないだろう。
機内食は、中国ローカル感が強まった独特の香りのするもの。
笑えたのは余った機内食を二巡目として客に配っていたことだ。
機内での時間を何ら有効に活かさないまま私は北京へと到着した。
北京の夜
北京では何とふざけたことに十数時間トランジットの時間があった。
何も計画していなかった割に強気だった私は、北京の空港から市内へ出ることを決めた。
行き先はもちろん天安門だ。
空港の超絶ぼったくり価格で両替をする。
そもそも私の最終目的地はバングラデシュのはずでは、、。
地下鉄に乗り、何となく市内の方へ向かう。
しかし、Wi-Fi接続を有していなかった私は、天安門がどこなのか全くわからない。
分からないのに出発する。
気が付くと、訳の分からない駅で降りていた。
冷静に考えてみると、既に北京は夜。
今から天安門に行けたとして観光は無理だ。
それに翌朝の便に備えなければならない。
意味不明な大胆さをもって北京市内に繰り出したものの、急に冷静さを取り戻し、空港へ戻ることにした。
空港に戻るまでもなかなか危うかったのだが、何とか空港に戻ったあとはひたすら時間つぶしだ。
読書用の本や、携帯ゲームなど気の利くものを何ら所持していなかった私は、北京国際空港のベンチでひたすら8時間近く横になるという奇行をはたらいたのであった。
昆明で混迷
北京の夜を超え、いよいよバングラデシュに到着する日が来た。
私の購入した激安航空券ではバングラデシュに行くために二日かかる予定となっていたのだ。
恐ろしいのは、二日目も北京からダッカに飛ぶわけではなく北京から昆明に行かなければならないということだった。
もはや感情を失いながら、中国東方航空北京発昆明行きの便に乗り込む。
地図を見ればいかにこのルートがバカバカしいか分かるであろう。
成田から上海、そして北京、そして昆明、ダッカと、一度中国国内で大幅に北上してから大幅に南下、そしてダッカに向かうという無駄さ。
若気の至りの塊のような航空券である。
さて、昆明に行く便は上海発北京行の便の50000倍くらい中国ローカル色が強かった。
昆明は国内旅行客にも人気だそうで、北京から浮かれ気分の中年団体が何やらガチャガチャと元気に機内を暴れまわっていたのだ。
もちろん座席にモニターが付いていない中国東方航空が提供する機内エンターテイメントはまさかまさかの無音ギャグ番組。
上海便、北京便とすでに同じものを二回見ていたが、さすがに三回目となると気が狂いそうになる。
そもそもここまで苦労して昆明に着いたところで、まだ最終目的地に到着していないという地獄。
今すぐにでも途中下車したくなる欲望を抑え、オチ、キャストの出るタイミングすべて把握している無音ギャグ番組をただ見続けた。
昆明
寝てはいなかったのだが、もはや意識が飛んでいたころ、何とか昆明に到着した。
昆明の空港ではタラップから降りて、バスで空港施設に行くというシステムになっていた。
タラップの長い階段のところに差し掛かる。
一人の南アジア系の老女が大きな荷物を抱えて、困っていた。
タラップをこの荷物を持って降りることが出来ないようだ。
仕方がない、手を貸そう。
Thank you.
老女がほほ笑む。
いいことをすると気持ちがいいものだ。
Where are you going?
老女が尋ねる。
ダッカと答えると、彼女は嬉しそうに
Me too!
どうやら老女はバングラデシュ人だったようだ。
空港施設の入り口にはDHAKAという看板を持った係員の女性が立っていた。
なるほどこの係員の女性についていけばいいのだなと思っていると、先ほどの老女が一言
「悪いけど、荷物運んでくれない?」
しょうがないなと思いながらも、行き先が同じであると言ってしまった手前断るわけにもいかず、老女の巨大な荷物を運ぶことに。
意外なことにダッカへの乗り継ぎを希望する人は結構多く、係員の女性にぞろぞろとついていく人の数も20人前後はいた。
スタスタと進んでいく係員の女性。
老女はマイペースにゆっくりと歩く。
ゆっくりと歩くだけならいいのだが、途中にあるお土産の店を冷やかしたり、急に立ち止まったりと列についていく気がゼロの模様。
気が付くと、私と老女はダッカ乗り継ぎの集団から完全に引き離されていた。
いまだのろのろと歩き続ける老女に嫌気がさしてきた頃である。
~くぇdrftgyふじkダカーあくぇrfgtひゅjlp~
!?
中国語はさっぱりわからないが、ダッカと言ってなかったか?
~くぁwせdrfちゅFinal Boarding Call for Dhakaあqwせdrftgyふj~
ダッカって言ってないか??
混迷深める
焦ったなんてもんじゃない。
そもそも中国に旅行に出かけてるわけではなくてダッカに着かなければ何も始まらないにも関わらず、この老女といちゃいちゃしている間にファイナルコールがかかってしまったじゃないか。
この時点で、絶望度マックスである。
そして更なる絶望は、これが中国国内線から国際線への乗り継ぎの為、出国審査、手荷物検査を受けなければならないという点だ。
私と老女は、審査場に着くことはおろか、ダッカ行がどこから出るのかも把握していない模様。
すべて係員の女性にちゃんとついていけば何の問題もなかったのに・・。
老女に恨み言を言いたくなる気持ちを抑え、近くにいた係員にすがるような顔で聞きこむ。
あっちあっち!急いで!という身振りで教えてくれたお姉さんが指さす方向は遥か彼方。
最悪なことに昆明の空港はモダンで超巨大であった。
いや急げやBBA
ヤバい!
急げ!
という態度を前面に出し、ファイナルコールかかってるよということを説明したものの一向に急ぐ気配を見せない老女。
生粋のセレブなのか何なのか知らんが、周りが明らかにバタバタとしているこの状況でも特に焦りは感じないらしい。
いらいらしながらもこの人をここで捨てたらこの人はバングラデシュに帰れないのだななどと意味不明な情が湧いてくる。
バングラデシュに行きたかったのに、、、中国で力尽きるなんて、、、
全部このBBAのせい、、、
出国審査場に何とかたどり着くと、そこには更なる絶望の風景が。
中国人民の長蛇の列
そうだよね。インバウンドだよね(意味不明)
中国の人々にも今や海外旅行は当たり前である。
昆明からも多数の国際便が発着している。
まるでファイナルコールがかかって死にそうな日本人とバングラデシュ人のペアを邪魔するかのようなレベルで中国人民が長蛇の列を作っている。
もうここまでくると運命が私をバングラデシュから遠ざけようとしているとしか思えない。
泣きたくなるのを必死にこらえ、たまたま近くにいた空港係員のお兄さんに泣きつく。
兄さんの覚醒
すると兄さんが突然。
ドントウォーリー!ダッカ!オーケー!
と一言。
そして持っていたレシーバーを駆使し中国語で何やら指示を飛ばす。
私たちを手招きし、長蛇の列から離れた審査場へ。
審査場には「外交旅券」と何やら書かれている。
そして、驚くべきことにこの審査場を通らせてくれたのだ。
審査場を抜けてからも兄さんはひたすら道を先導してくれる。
老女は相変わらずのろかったが、兄さんの形相にひるんだのか2%くらい動きが速まっていた。
搭乗口に着くと、係員らしき人たちが手招きしている。
はあ、間に合った。
既に着席している他の乗客たち全員にガン見されながらおずおずと私と老女は席に着いたのであった。
赤い大地
なんだかいろいろあったがダッカに到着である。
赤い大地が空からも確認できる。
四回目となる無音ギャグ番組を死んだ目で見つめながらもバングラデシュ上空に差し掛かった時はさすがに感動を覚えた。
一にも二にも昆明で私たちの混迷を解決してくれた兄さんには感謝しかない。
私より前方の席に座っていた老女に、ダッカの空港到着後入国審査場の前で追い着いた。
「いやーさっきは大変だったね」と話しかける。
・・・
・・・
え、無視?
なんだか嫌なモノでも見るかのような目で私を一瞥した老女は、昆明では見せることのなかったスピード感でスタスタと私のもとを去っていったのであった。
(続編)
すぐ舐められる病
私は他人から軽んじられるタイプだと思う。
小さいころからそうだ。
基本的に他人の話に対しては否定することもなく、「うんうん」「そっか」を繰り返して聞いてしまうからか、はたまた、陰キャの空気がプンプンしているからか、気が付くと会話の相手が調子に乗っていることが多い。
私は別に聖人ではないし、どちらかというと性格は悪いと思うのだが、相手からするとこいつに対しては何を言っても、どんなにぞんざいに扱っても大丈夫となめられていることが多い。
気が付くとマウントを取られるような発言だったり、明らかに私を下に見てくるような態度を取られるたりすることも何回もあった。
私とてそこまでアホではないので、軽んじられているかいないかくらいは当然すぐに気づく。
しかし、私のような典型的陰キャはその場で言い返すことも出来ず、後から思い出して悔しいと一人布団の中で唇をかみしめるのだ。
陰ターンシップ
私は、いわゆる「意識高い」系が集うインターンシップに参加していた。
そもそも就活自体滅びろと思っていたクチのくせにそんなインターンシップに参加した理由は今考えても分からないのだが、一種のマゾヒズム的精神で自分が最も苦手とするタイプのイベントに参加してしまったのだ。
そのインターンシップは、インターン生が4-5人グループになって3日間さまざまな課題に一緒に取り組んでいくというタイプのものであった。
グループワークというだけで吐き気を催し、さらにそれが3日間朝から晩までみっちりとプログラムが詰め込まれており、さらに来ている学生の層が明らかに私の性格と合わないタイプの奴らばかりという驚異の悪条件。
鬱な気分満載の私と違って、私のグループにいた他の学生は「アピール」の場としてやる気に満ち溢れているようだった。
自己紹介は品定め。
私の運命はグループで自己紹介をする時点で決まっていたといっても過言ではない。
大学院生です。
といった瞬間の周りの学生の表情。
こいつはどうせモラトリアムでヘラヘラ生きているに違いないという決めつけの表情。
言葉を発しないものの明らかにそういう雰囲気が出ているのを察知した。
かたや、他の学生は一人「30秒程度」という時間制限を無視して、いかに自分が「国際的で」「活発で」「ボランティア活動も行っていて」というアピールを存分に行っていた。
この時点ですでに勝負はついていた。
単なる大学院生の私<<<<<<<<<<他の学生
そこには、とても乗り越えられないような壁が既に築かれていた。
存在無視
自己紹介が終わるや否や我々には次々に課題が与えられた。
紙資料がどんどんと配布される。
「資料から読み取った情報をまとめてください。」
「商品の売り上げを増加させるためのアイデアを出してください。」
問題はここからだ。
グループワークで課題を解き、それを社員、そして他グループの前で発表しなければならないのだ。
気が付くと、他の学生は訳の分からない模造紙に訳の分からないことを書きまくっている。
私が陰キャ特有の変に丁寧な態度で言う。「あの、まず資料を読みませんか・・・」
無視。
自己紹介の時点でボス猿感が出ていた男が言う。「まず資料を読み込もう!」
グループ員「そうだね!(満面の笑顔)」
陰キャの人生なんてこんなもんである。
資料を読むなどという指示は誰がしたって同じである。
発表用の模造紙に訳の分からないことを書きなぐっているのはブレインストーミングとしてもあまり意味がないし、最後の発表の資料としても汚くなってしまう。
そういうことを考えたうえで必死に言ってみた私の発言は見事かき消され、同内容の発言をしたボス猿の発言はみんな聞く。
その後も、何かを発言しても「そうだね」と薄い反応しか得られないのに、他のメンバーが同じ内容の発言をすると「いいね!!(満面の笑顔」「やってみよう!!(満面の笑顔)」と反応を得ることが何回も見受けられた。
結局その三日間で私の発言は無視され続け、無駄に精神的ダメージを食らうだけ食らってインターンシップを終えたのであった。
やる気がないように見えたから、と言えばそうなのかもしれない。
結局、他の学生も私の本心を見透かして私のようなしょうもない人間の意見はアクティブに無視しようと決めたのかもしれない。
私の声が小さかったのかもしれない。
私の発言の仕方がキモかったのかもしれない。
自責しようと思えばいくらでもできる。
ただ、私の人生でこういった類の経験と言うのは初めてではないのだ。
Tくん
Tくんは、大学のドイツ語の授業でクラスメイトだった。
右も左もわからない大学生活。
何気なく話しかけた相手がTくんだった。
友達が欲しかった陰キャの私は、Tくんという話し相手が大学にできたことを喜んでいた。
Tくんは、いろいろなことに興味を持っているようで、私のようなエネルギー低め人間にはわからないような世界のことを知っていた。
いろいろな話をしてくるTくんに私は「へぇーすごいね」とか「そうなんだね」とか中身のない肯定を繰り返していた。
Tくんは一年生の夏、ドイツに短期語学研修へ行った。
夏を終えて、秋学期に再開した私は、Tくんの態度に違いを感じるようになっていった。
そもそも、Tくんがいろいろと話をしてくるときも基本私を下に見るニュアンスが含まれているような気がしていたのは感じ取っていた。
「この前バイトでさ~」「あ、まだお前バイト決まってなかったよね(笑)」
「サークルでさ、合宿あったんだけど」「そういえばお前のサークルってなんだっけ。なんか暗い人多そう(笑)」
いま思うと、目くそ鼻くそを笑うとしか表現のしようがないのだが、そんなTくんをスパッと「切る」こともできずうだうだと関係は続いてしまっていた。
そして、いま、ドイツ帰りのTくんである。
夏の間ドイツにいたということを自慢したくてしょうがないらしく、事あるごとに「ドイツではね」「ハンブルクの発音はね」「ドイツのホンモノのビール飲みてえな」
としょうもない自慢をしてくる。
「え、ていうかお前海外行ったことある?」
というマウントをTくんにとられたのもこの時期である。
私はなりそこないだが帰国子女である。
バカバカしすぎてTくんに伝える気もしなかった。
ここのあたりから私はTくんのことがどうでもよくなっていった。
Tくんが私に望んでいるのは、ちょうどいいサンドバッグ的役割であり、「やる気もなくて」「バイトも見つかってなくて」「陰キャ」で「海外経験のない」ヤツという下に見れる存在であり続けることであった。
他人から軽んじられる病のいま
いま、冷静になってこの自分の傾向を考えてみると一つの結論に達する。
自信がない態度が、他人を増長させるのである。
インターンシップでもそうだ。
Tくんだってそうだ。
インターンシップでは、自分が院生であるなどと言うことを少し自嘲気味に言ってしまったが最後、舐め地獄の底まで一瞬で落ちてしまった。
Tくんだって、大学でやっとできた知り合いだから、などと思ってずるずると関係を続けてしまったから下に見られ続けてきたのである。
自分に自信がないのはいいとして、それを他人に見透かされるような態度をとるとすぐに付け込まれてしまう。
私はそんなことを人生でずっと繰り返してきたのだと思う。
だから最近思うのだ。
こびへつらって、自分を不必要に舐められる立場に追いやるような行動は避けるべきだと。
自分が渦中にいると、自分がいる組織だとか人間関係がいかにしょうもなく取るに足らないものであるかはなかなか気づかない。
あんなにしょうもないインターンシップだって、嫌だったら途中で帰ってくればよかったのだ。
Tくんがいなくたって私は大学生活を楽しく送れたわけだから、嫌だったのならさっさと縁を切ればよかったのだ。
いま、振り返って思うのは、私が精神的ダメージを受けてきた出来事ひとつひとつのバカバカしさである。
嫌なら捨てる。
ただそれだけで解消されることが世の中には多いと思う。
人を舐めてくるようなヤツというのは本当に大したことないヤツらばかりである。
私を馬鹿にしたいのならせめてマハトマ・ガンディーとかマザー・テレサとかそれぐらいの業績を残してからにしていただきたい。
今の私ならいえる。
インターンシップでイキッってた猿ども!ドイツかぶれのT!
バーカ!!クソ野郎!!
こういうのをインターネットで発信しようと思うのが結局私が陰キャたるゆえんだ。
古代への情熱
その日私は、トルコ共和国チャナッカレ市にいた。
高速バスに揺られて4時間。ついにエーゲ海に到達した。
エーゲ海は、想像よりも荒涼としていて寒々としていた。
チャナッカレは悠久の歴史を刻む北西トルコの入り口である。
イスタンブールやブルサといったそれまでに訪れていたトルコの大都市と比べると町のサイズは比較にならないほど小さい。
それは私の母の実家である鎌倉市をほうふつとさせるような、こじんまりとした港町である。
私は、チャナッカレに到達したら何よりも行きたいところがあった。
トロイア遺跡である。
古代への情熱
シュリーマンをご存知であろうか。
世界史を履修した人ならば、授業の初期に必ず名前が出てくる人物である。
シュリーマンはドイツの実業家であった。
彼は、ビジネスの世界に身を置きながらも幼少時に耳にしていた古代ギリシャ詩作品集「イーリアス」の感動を忘れることができず、考古学の道へと進んだ。
シュリーマンが実際に発掘を行うまで、トロイアは伝説上の架空都市にすぎないとする見方が支配的であった。
しかし、シュリーマンは夢を追い続け、ついにトルコ北西部にて遺跡を発掘したのであった。
その半生を記した自伝が「古代への情熱」である。
このストーリーと、自伝のタイトルを聞いただけで涙がこぼれてしまいそうになる。
信念を持って、情熱を注ぎ続ければ夢は成就する。
そんな、熱い人生を生きた一人の男性の物語がトロイア遺跡にはあるのだ。
私は、シュリーマンが人生をささげたトロイア遺跡にどうしても行ってみたかったのだ。
トロイア遺跡は、チャナッカレ市内の乗り場からミニバスで30分ほど走ったところにある。
私は朝一のミニバスに乗り込み、無事トロイアへと出発したのであったが・・・。
出発後20秒後、そういえば料金をまだ払ってないななどと思いながら、何気なく財布を確認すると、
ない。
あれ、財布がない。
このままだと無賃乗車になってしまう。
そう思った私は、英語がほとんど通じないドライバーと周囲の乗客に「降ります」と一億回くらい伝え、即座に下車した。
さいわい、ミニバスは乗り場から公道に出てすらいなかった。
財布がない。
血の気が引けながらも自分がホテルから乗り場に来るまでの道を血眼になって逆走する。
海外で、財布を落とすなんて冗談じゃない。
クレジットカードはおろか、持っているほぼ全財産が入っている財布を失ったら空港にすらたどり着けない。
どうしよう。
そんな思いで頭がいっぱいになっていた。
もう一度確かめようと思って路上で鞄を全てひっくり返す。
鞄のわきについている小さなポケットも開ける。
まさかこんなところに入れているはずが・・・。
はい、入れてました。
朝、所持金を確認するため財布を取り出し、無意識にそのポケットに財布を突っ込んでいたようであった。
気を取り直して、まるで何もなかったかのように再度バス乗り場へ。
さっきと全く同じ乗り場から同じバスに乗ればいいのである。
余裕の顔をしながらミニバスに乗り込むと、初老の男性が先客として乗っていた。
彼がトルコ語で何やら私に語り掛けてくる。
「くぁwせdrftgyふじこ...コントロールくぁwせdrftgyふじお.???」
コントロール...
すると彼は英語に切り替え、
「Did you pass the control?」
コントロール...
なんのことを言っているのだと思ったものの、うすうす見当はついていた。
コロナウイルスである。
私がトルコに滞在していた当時、トルコでは感染者ゼロ。
反面、中国をはじめとする東アジア諸国がコロナの猛威にさらされていた時期であった。
街中で露骨に嫌な思いをすることはなかったものの、心なしか人々の視線が東アジア人である私に突き刺さるような雰囲気が出ていたのだ。
その初老の男性も私に対して、東アジア人なのにどうやってここまで来れたのだというようなニュアンスを込めて質問してきたに違いない、私はそう思っていた。
何とか気まずい雰囲気になるのは避けようとフレンドリーに回答を試みる。
私はトルコ入国後からすでに結構な日数が経っていること。
空港設置のサーモグラフィー検査はパスしたこと。
男性と少しの英語とトルコ語で意思疎通をはかった。
まったく、さっきのバスに乗れていればバイキン扱いされて嫌な思いもすることはなかったのにな、などと思うようになっていた。
「コントロール」を抜けたという話が終わっても、男性はまだ私にいろいろと質問をしてくる。
どこから来た、何しに来た、どこの町に行く、なぜトロイアに行く。
彼は日常会話程度の英語を知っていたので、どんどんと私に質問を投げかけてくる。
ここは、入国審査じゃないんだけどな、トホホと思いながらもトロイアまでの道すがら彼と会話を続ける。
しかし、だんだんと会話をするにつれて、彼が私に質問しているのはコロナウイルスを警戒しているからというよりも、シンプルに興味本位からではないかと感じるようになっていた。
そして唐突に「ドイツ語は知っているか?」
と聞かれた。
「大学で少し学んだ」、と答える。
すると急にスイッチが入ったかのように流暢なドイツ語で私に質問を続けようとしてきた。
水を得た魚とはまさにこういうことである。
さっきまでの英語のたどたどしい一単語一単語ぶつ切りにして言うような話し方から、流れるようなドイツ語へと切り替えたのだ。
大学の第二外国語の授業でドイツ語を学んだといっても、私が流暢に言える文は Das verstehe ich nichtだけである。意味は「私はそれの意味が分かりません。」である。
そんな絶望のドイツ語力の私に彼は嬉しそうにドイツ語をまくしたててきた。
冷静になって話を聞いてみると、彼はドイツで長く働いていたようであった。
そして、私は彼のことを完全に地元民だと思い込んでいたのだが、彼も海外在住トルコ人として久々に故郷トルコへ戻り、観光をしているということであった。
つまり、彼もいち観光客としてトロイア遺跡に向かっているのである。
最初の不安はどこへやら、その事実を知ると急に安心感が湧いてきた。
初老の男性は名をヤヒヤーと言い、ヤヒヤーと私は一緒にトロイア遺跡の観光をすることとなったのであった。
ヤヒヤーは私に話しかけてきたときのように、道行く外国人観光客にどんどんと話しかけていく。
ドイツ人の夫婦とすれ違ったときには、ドイツ語で長い間談笑を楽しんでいた。
ヤヒヤーはドイツで船の操縦士をしていたそうで、世界のさまざまな港を訪れた思いで話を遺跡までの道すがら聞かせてくれた。
トロイア遺跡は、いわゆる"がっかりスポット"であるということは知っていた。
たしかに、遺跡の現場に行ってみるとそこには取って付けたかのようなトロイの木馬が置いてあり、あとは広大な遺跡が漠然と広がっているだけのように見えた。
私がいたく感動していたシュリーマンのトロイア遺跡発掘であったが、実態は考古学の素人が十分な遺跡の保全をせずに行ったものであり、それが現在にまで至る遺跡に関する考証の困難性につながっているのだという。
私たちは遺跡本体の観光を終え、近隣にある博物館を訪れた。
田舎町トロイアには似つかわしくないようなとてもモダンで洗練された歴史博物館であった。
数々の興味深い展示物が、所狭しと並んでいる姿は圧巻であった。
トルコの悠久の歴史の一片を感じ取った気がした。
ヤヒヤーはトロイアの歴史について博物館の展示を指しながら詳細に説明を加えてくれた。
トロイア遺跡は「イリアース」を信じ続けたドイツ人が発掘したこと。
私が知っているストーリーについても言及があった。
ヤヒヤーは常に笑顔をたたえていたのだが、博物館のあるコーナーを見て、急に顔色が変わった。
そこには、トロイア遺跡から発掘されたものの外国へ流出した文化財の展示がなされていた。
このコーナーを見るなり彼はここに釘付けとなっていた。
一つ一つの文化財を行ったり来たりしながら何回も眺める。
そしてつぶやくのである。
Shade!
ドイツ語で残念という意味だ。
「失われた財物」はドイツの博物館やロシアの博物館で展示されているものが多いようだ。
これほど多くの貴重な文化財が外国へ流出してしまったという事実は外国人である私にとってもなかなか驚きであった。
彼はこの事実に人一倍心を打たれたようであった。
その後も、しきりにこのコーナーに戻ってきてはShade!と繰り返すヤヒヤーは、怒りが収まらず、館内にあるシュリーマンの写真を見てはSchwein!と叫んだのであった。
Schweinとはドイツ語で豚のことだ。
ヤヒヤーのあまりの豹変ぶりに驚いた一方で、私はシュリーマンの「古代への情熱」に対してはじめて不信感を抱いた。
たしかに、幼少時に聞いた古代ギリシャ詩を忘れることなく、情熱を追い続けた彼のストーリーはとても感動的である。
げんに、遠く離れた異国の高校生が世界史の授業でみな「シュリーマン」の名を習っているのだからとてつもない偉業である。
一方で、その「偉業」の裏にはトルコの人々がいたのである。
彼らは、突然やってきたドイツ人が自分たちの故郷から、貴重な財物をどんどんと海外へと運んでいくのをみて何を思ったのであろうか。
オスマン朝も流出を指をくわえて見ていたわけではなかったようだが、結局のところ貴重な財物の国外流出は避けられなかったようだ。
ヤヒヤーの反応は極端とはいえ、トルコ人のサイドから見たシュリーマンの物語をよく示していたようにも思った。
怒り冷めやまないヤヒヤーと博物館の外に出るとずぶ濡れの雨が降っていた。
私たちは村の中心へと大急ぎで向かった。
ヤヒヤーは持ち前の積極性を発揮し、村の老人に何やらトルコ語で質問をする。
老人は我々を手招きでカフェに連れて行ってくれた。
そこで温かいお茶とハンバーグをいただきながら、村の老人とヤヒヤーが会話するのを聞いていた。
ヤヒヤーはどうやら、村の現状について尋ねていたようである。
かろうじて理解したところによると、子供は学校のため村から出ていかざるを得ず、また親世代の若者も仕事のために村から出て行っているようである。
結果としてトロイの村には老人ばかりが残っているそうだ。
たしかに、チャナッカレからわずか30分という立地にありながらトロイはかなりの田舎であるように見えた。
食事も終わり、去ろうとすると、ヤヒヤーが会計を済ませていた。
出してもらうなんて悪いと後からお金を渡そうとしたもののヤヒヤーは全くお金を受け取ろうとしない。
結局、お昼はおごってもらうことにになった。
その後、村の老人と共に別の集会所へ向かう。
ふたたび温かいお茶が出てくる。
ヤヒヤーはここでも知らない人たちにどんどんと話しかけ、何やら盛り上がっていた。
集会所を見回すと、誰もかれもが老人世代。
若者人口が多いトルコでは、ここまで老人が密集したコミュニティもなかなか珍しいのではないかと思った。
ここでのひと時を終え、トロイの村を後にしようとトロイの村のバス乗り場へ。
バス乗り場の近くの壁にはシュリーマンの妻が、遺跡から発掘された財物を身に着けている写真が飾られていた。
Schwein!
ヤヒヤーは吐き捨てるようにその写真に向かって叫んでいた。
バスに乗ってチャナッカレへ。
下車するときにヤヒヤーは私の分の料金も支払っていた。
なぜヤヒヤーはここまで、私に優しくしてくれたのだろうか。
ウイルスを持っているかもしれない東洋からの旅行者にどうしてここまでしてくれたのだろうか。
チャナッカレ到着後、港へ船に乗りに行くというヤヒヤーにどうしても聞きたくなった。
彼はこともなげに「日本が好きだからね」と言った。
果たして、彼が本気で日本のことを好きだったのかは未だに分からない。
ヤヒヤーと港近くのガリポリの戦いを記念した砲台の跡に差し掛かったとき、再び彼は何かスイッチが入ったように叫んだ。
Schwein! England Schwein!
ガリポリの戦いは第一次世界大戦中、イギリスをはじめとした連合国軍がオスマン帝国の首都イスタンブールを目指して行った上陸作戦である。
オスマン帝国軍の激しい抵抗にあい上陸は失敗に終わったが、両軍に多大な犠牲が出た20世紀を第業する戦いだ。
彼にとっては、そんなイギリスも"Schwein"だったようだ。
今日一日のヤヒヤーの行動を見て思ったことがあった。
相反する感情
ヤヒヤー自身、ドイツで長く働いていてドイツ人観光客に会ったときも嬉しそうにドイツ語で会話を楽しんでいた。
一方で、ヤヒヤーは博物館で西洋諸国へ流れていったトルコの財物に対して憎しみにも似た感情を吐露していた。
自分が働き、生活をしてきた場としての西洋。
トルコという東洋の国を蹂躙し続けてきた西洋。
ヤヒヤーは西洋に対して、一筋縄ではいかない感情を有しているように見えた。
「日本のことが好き」と言ってみたのもそんな西洋への反発心からであったのかもしれない。
Japonya'ya selamlar!
日本へよろしく!
そう言いながらヤヒヤーはチャナッカレの港へと去っていった。
しかしその「情熱」のうらには一筋縄ではいかない歴史が隠されていたのであった。
修論がやばいあなたに
修論 やばい【検索】
秋口から冬にかけての風物詩である。
あぁ、修論。
考えただけで胸がドキドキして鳥肌が立って夜も眠れなくなる、まるでそれは初恋の相手。
書かなきゃ、やらなきゃと思い続けるものの、文字数は一向に増えない。
そもそも文字数を増やしたところで、クオリティが伴っていないと落とされてしまうではないか。
モヤモヤだけが募り、修論 やばい【検索】を繰り返す日々。
参考にするのは数々の修羅場を潜り抜けた猛者たちの体験談。
自分も来年こそはあの偉大な猛者たちに並べるよう、修論を命がけで仕上げるのだ。
と誓ったあの日々から早数か月。
絶対無理と三秒に一回は思っていたが、気が付くと私の手には修士号の学位記が。
そう、私も猛者の仲間入りをしたのだ。
ここで私の修論スペックについて先に紹介しておきたい。
第一に、私は文系(社会科学系)である。
文系修士が圧倒的に少ない中で、このような体験談をシェアすることで文系の後輩たちへの参考になれば幸いである。また、文系以外でも一般的に修士論文とは何ぞやというところはかなりの部分共通しているのでそこに関してさまざまな専攻の方に何らかの希望を与えられればと思う。
第二に、私は締め切り一週間前には仮完成をさせていた。
これは、超ギリギリでもどうにかなったという体験談を欲するあなたには物足りないかもしれない。しかし、焦りや研究の進まなさ度合いでは相当に苦しんだ自信があるのでその点については共感をいただきたい。
油断の第一学年と春の恐怖
ハリーポッターと賢者の石みたい
「文系で大学院行くやつってモラトリアムの延長っしょ笑」という声を一億回くらい聞いてきたが、まさにそれは文系大学院生が修論に取り掛かっていない段階のことを指しているのではないかと思う。
修論に取り掛かっていない段階では、それなりに授業もあって発表もあって、レポートもあってと忙しさもあるが、社会人として朝から夕方まで毎日規則正しく働いている友人などと比べたら何とも怠惰に見えてしまうであろう。
実際に、私は怠惰であった。
修士論文を翌年に書かなければならないということは頭では分かっていたものの、なかなか具体的なリサーチクエスチョンをうまく設定できず、それでもまだまだどうにかなると思っていた。
結果として修士論文に直接役立ちそうな授業というよりは、興味のおもむくままにいろいろな授業を取っていた。
どの授業もそれなりにコミットメントは求められるし、すべてが楽勝というわけではなかったのだが、それでも学期が終わってしまえばあっという間に気持ちは緩んでしまう。
私の大学院一年生生活はそうやって幕を閉じようとしていたのであった・・。
しかし、である。
私の所属していた研究科では大学院二年生の春先に全員参加で構想発表会を行う必要があった。
構想発表会とは、どのようなテーマについて、どのようなリサーチクエスチョンを立て、どのように取り組んでいくか、また進展状況を鬼教授陣、同期の学生たちに発表し、つるし上げ有益なコメントをいただく会である。
お、やばいと思ったときにはすでに一年生の後期も終わってはや2月。
構想発表は5月なのであと3か月くらいしかまともに取り掛かれない。
そこで私がとった驚愕の行動とは?
A. 二か月放置する。
これは修論イヤイヤ期である。
修論イヤイヤ期とは?
修論イヤイヤ期とは、「修論などこの世に存在しない」「私は毎日楽しく平和に暮らしていける」という謎の自己暗示をかけ、修論の存在を脳内から抹殺する時期のことを指す。
あと三か月でそれなりに方向性を固めなければならないという現実を無視して、2月、3月においては全く修論に関係のない経済の勉強をしてみたり、フランス語を始めたりと謎に充実した日々を過ごしていた。
しかし、ついに構想発表会があと一か月ほどに迫ってきた4月のある日、私は最初のハードルに差し掛かったのであった。
それは自ゼミ内での発表である。
指導教官と、同じゼミに所属している学生が、構想発表の練習会として私に発表する機会を与えてくれたのだ。
ゼミでの発表は一年生のときにも何回か行ったが、そこではまだ抽象的な方向性発表程度でよかったため、本格的な発表はこの機会が初めてとなる。
この時点でゼミ発表まであと一週間。
知識ゼロ、進展ゼロ、焦り100000000。
果たしてどうなることやら。
諦めと失望
寝ずに準備してこれである。
発表し終わった瞬間の「こいつ何言ってんだ」というゼミの空気が恐ろしかった。
肩をがっくり落とすとはまさにこういうこと。
リサーチクエスチョンが極めてあいまいなまま特攻してしまったため、何がやりたいのかわからないという質問が相次いだ。
何がやりたいのかわからないと言われ続けると、確かに自分でも何がやりたいのかわからない。
しかし何をどうすればいいのかもわからない。
分からないが分からないを呼んでカオスを生み出している。
分からないということは分かっている。
自分が無知であるということは知っている。
それはまさにソクラテス状態。
こんな体たらくで構想発表会なんてとても無理。
それどころか今年度卒業するのはたぶん無理じゃないかなどと考え始めるようになってしまった。
修論鬱期
修論鬱期の到来である。修論鬱期は、基本的に修論を書き終える瞬間まで継続するものなので、修論鬱期の到来をもって私は真の修論戦士となったといえるであろう。
修論鬱期の最初期段階としては、先生や先輩に修論に関してボロクソ言われ、やる気をなくす→無理だと悲観的になる→修論つらいやばいとなる思考プロセスが有名である。
私は自ゼミでの発表以降すっかり修論を書き上げるのは無理ではないかという鬱モードに入ってしまった。
しかし、今思い返すと、である。
自ゼミでボロボロに叩かれなければほぼエンジンはかからないままだらだらと構想発表会へと突入していたであろう。
タイミングがいつであるのかということであって、構想発表会にしろ自ゼミでにしろボロボロに叩かれることは決定していたように思う。
そもそも、あれほど何もやっていなかったのにいきなりちょっと徹夜しただけで修論の方向性が決まるなら今頃既に私は教授職に就いているほど優秀な研究者であろう。
そこから一か月の集中は自分でも引くほどものすごいものがあった。
まさに、無知の知という状態。
自分が何もわかっていないことを自覚したからこそ、何とかそれを打破しなければならないという思考回路に至ったのだ。
朝も夜中も論文を集めては、どうにか参考にできないか思案する日々。
しかし、論文を読んでもさっぱりわからないことだらけ。
わからないことの上にわからないことが積み重なるので、読めば読むほど超巨大なわからないマウンテンが形成されていくのである。
わからない。なにもわからない。
わからないことはわかっている。
脳内でグルグルと回る思考。
構想発表会は迫っていた。
こんなに目覚めたくないと思った朝もない。
泣いても笑っても時間というものは経過してしまうのである。
気が付くと構想発表会当日になってしまった。
構想というにはあまりにぼんやりとした計画。
一か月の地獄の追い込みも叶わず、ついにここで息絶える。城之内、死す!
始まる前から葬式のような気分で構想発表会に臨んだのだが、他の学生の発表を聞いて気付いたことがある。
みんな意外と進んでないゾ
私は、当然私が研究科一のクズだという気持ちで構想発表会に臨んだのだが、レジュメを見た限りでも発表を聞いた限りでも、感心するほどの進展を見せている学生はほとんどいない。
教授陣に鋭い指摘を受けると黙りこくってしまう学生、リサーチクエスチョンが上手く説明できていない学生。
私は勝機を見出した。
構想発表会もついに私のターンがやってきた。
発表を終えると、教授陣の目からはあふれでる涙が。
周りに座っていた同期の学生たちも私を憧れのまなざしで眺めている。
私のあまりに素晴らしい構想発表に、会場の雰囲気は一変した。
という妄想をしながら、私は発表に臨んでいた。
案の定、教授陣からは厳しい指摘が相次ぐ。
ここで、私は「無知の知」戦法を取ることにしていた。
私は、自分が分かっていないということは分かっている。
だから、分かるようにするために教授陣に教えを請いたいという極めて前向きかつ現状に即した対応だ。
質問が来るたびに「私は細かい知識はないけれども学ぶ意欲はある」という姿勢を見せつける。
教授陣も「こういう方面を見てみればいいんじゃない?」「この論文読んだ方がいいよ」「そのやり方よりこっちの方がいいと思う」と有益なアドバイスをどんどん飛ばしてくる。
お客様の声が企業を一番成長させる、ってどっかのイケイケ社長もテレビで言っていたじゃないか。
私の修論も、教授陣の「お客様の声」を反映して成長するのだ。
あぁ、これがアカデミア。
私の構想発表は、拍子抜けするほど和やかに終わってしまったのであった。
修論蜜月期と絶望の夏
構想発表会が終わってからの二か月は自分が無敵なのではないかと錯覚してしまうような希望にあふれた日々であった。
思わず毎日散歩に出かけたり、新たにインターンシップを始めたり、トルコ語のマンツーマンレッスンを始めたりなど修論以外のイベントを充実させていた。
少しの達成感を過剰に拡大解釈することで、自分はすべてうまくいくと勘違いをし、修論への恐怖が和らいでしまうのだ。
しかし、この時期はあくまで修論鬱期の中にあるものであり、修論自体が何らの進展も見せていないことから少しも自体が好転していないことに注意が必要だ。
ついに夏休みの到来である。
修論の天王山。夏休み。
ここで何らかの進展を得られなければ、冬に迫る修論締め切りに間に合わせるのは厳しくなってくる大切な時期である。
そんな時期に私が取った行動は?
A. ウズベキスタン旅行に出かける。
焦りのサマルカンド
ウズベキスタンには以前から行ってみたいと思っていた。
そして、この夏が自分の学生人生ラストの夏休みとなるということに気づいてしまったのだ。
行かぬわけにはいかぬ。
私は、迫りくる修論の恐怖を日本に捨て、遥かウズベキスタンへと旅立ったのであった。
ウズベキスタンでの日々は、あんなことやこんなことがあってとても充実していた。
修論の恐怖は全て日本に置いてきたと思っていたものの、やはりフラッシュバックのように突然浮かんでくる。
何を隠そう夏休みが終わった直後には、中間発表会が迫っていたのである。
構想発表会の辛さを1とすれば、中間発表会の辛さは100000000000。
号泣させられた先輩の都市伝説など、恐怖ストーリーに事欠かない地獄のイベントである。
目に映るは悠久の歴史を刻む遺跡。
脳内に浮かぶは修論の二文字。
不安にかられサマルカンドのかつての中心アフラシヤブの丘で「修論 やばい」と検索したのは人類史上私が初めてではないだろうか。
絶望帰国
そうこうしているうちに私のウズベキスタンでのひと夏は終わりを迎えた。
気が付くと、中間発表会まであと一か月。
中間発表会にあっては何らかの結果を出していなければならない。
しかし、この時点で構想発表会からの進展はほぼない。
地獄の日々が再び始まったのであった。
帰国直後のある日、指導教官が私に夏休みの進展状況を尋ねるメールを送ってきた。
万事休す。城之内死す!
私はここですべてを受け入れることとした。
のび太くん戦法
そう、のび太くん戦法である。
出来てるふり、分かっているふりをやめ、ドラえもんに頼るのび太くんになるのだ。
私は覚悟を決め、指導教官とのアポイントメントを取った。
指導教官との面談では、ボロクソに叩かれケチョンケチョンにされると思っていたのだが、特にそういうこともなく、冷静に多くのアドバイスをいただいた。
のび太くん戦法が功を奏したようだ。
のび太くんは、どんなひみつ道具があって、どういうことができるかについては全く知識を有さない。
しかし、彼は、問題点がどこにあるかを知っている。
スネ夫が旅行に出かけて悔しいから僕も行きたい。
ジャイアンに殴られたから仕返ししたい。
ドラえもんはこのような具体的問題点を聞いたうえでその解決策となるひみつ道具を紹介するのである。
私は、結果らしい結果も進展も生まれていないないという現状の問題点をありのままに伝え、それを解決するためのひみつ道具の提供を指導教官に求めたのである。
怒涛の追い込みと魔女裁判
自分がダメダメのび太くんであるということを指導教官にカミングアウトした後は、気持ちがかなり楽になった。
もうこれで進展を偽る必要もないわけだし、アドバイスも得られた。
問題は、中間発表を乗り越え、修論の本格的な執筆にさっさと取り掛かることである。
私はここで、自身の修論のゴールを設定することとした。
修士論文にはオリジナリティが求められるとよく言われている。
当然、研究の結果は何らかの新たな知見を学術界にもたらさすものでなければ意味がないからである。
私は、このオリジナリティの呪縛に囚われていた。
つまり、すべてを一から構築しなければ修士論文として意味がないと判断されるのではないかという思い込みである。
しかし、その分野の大家であるならまだしも一学生がすべてをゼロから生み出すというのは妄想の寄せ集めのようなものでむしろ信ぴょう性に乏しい。
そこで私は、ベースとなる理論に関しては私よりも遥かに優れている大家の皆様の枠組みを採用すること(なぜ、その枠組みを採用するのかを適切な引用を用いて説明する必要はあるものの)で大幅に作業を簡略化し、取り扱うケースをそれまでほとんど議論されたことのないものに絞ることで、オリジナリティを出す方法をとることにした。
魔女裁判
悪名高き中間発表会がついに来てしまった。
相変わらず準備は全くできていないが、もはや特攻するしかない。
ここは何を言っても、否定され続けるいわば魔女裁判。
目の前で他の学生たちが処刑されている。
構想発表会から大幅に進歩した者もいれば、あまり変化のない者もいる。
ただ一つ共通するのは全員が処刑されているということだけ。
私は晒上げられるかわいそうな魔法少女。
お守り代わりに自分が書き集めてきたメモパッドを手に発表に臨んだ。
発表を終えると、次々に教授陣から質問を受ける。
突っ込まれたくないところばかりいろいろと指摘されてしまった。
やはりここは魔女裁判。
何を言ってもつるし上げをくらうのだ。
、、、ん?
いや、待てよ。
突っ込まれたらいやだなというところばかり突っ込まれたというのは、そもそも私がした発表内容がある程度教授陣には通じているということか。
この発見は私にとって非常に大きいものであった。
やっと教授陣と同じ土俵にのれた感覚ができたのだ。
構想発表会では、方向性が定まっていなかったからこそ教授もアドバイスを与えるくらいしかすることがなかったのだ。
中間発表会でそれなりに意見をもらったということは、私の研究内容、結果がへぼいということは差し置いて、へぼいなりにやりたい方向性(とそれができていないこと)が伝わった証拠ではないか。
つまり、自分が頑張りさえすれば研究を良くしていけるというお墨付きを得たようなものだ。
この時の私の異常なプラス思考はおそらく数日まともに寝ていないという精神状態のたまものといえるが、なんだか急にどうにかなる気がしてきたのだ。
第二そう期とフィナーレ
中間発表会でそれなりにボコボコにされた私であったが、不思議とへこみはしなかった。
まさにこの時期は、修論第二そう期である。
いざ書き始めると、うまくはいかないものの何か進展を生み出しているという感覚があってやりがいは大いにあった。
あと三本くらいは修論がかけるかもしれないなどと妄想が膨らんだのもこの時期である。
この時期は理論的整合性を持ってある程度の長さの文章を書くことがいかに難しいか思い知る時期でもあった。
たったの数行先にもかかわらず矛盾を始める記述。
読んでも読んでも分からない先行研究。
集まらない資料。
冷静に考えるとヤバいとしか言いようがない状況ではあったものの、やっと修士論文の醍醐味に触れられたような気がしていた。
修論鬱期再来
やり始めはいつもなんでも楽しいものである。
何をやっても右肩上がりに成長していくからだ。
しかし、執筆開始から数週間たつとその手が完全に止まってしまった。
一週間近く何をやってもかけない。
論文も読めない。
完全に詰んだ状態である。
このときすでに締め切りまでは二か月半。
進展は20%といったところだろうか。
やっと先行研究が言わんとしていることがうっすら分かった段階で、自分が選んだケースを具体的に分析するところまでは全く至っていないという驚異の遅さ。
修論 やばい【検索】を一日に200回くらい繰り返していたのはこの時期だ。
修論を終わらせられなかった場合の人生について考える。
修論 やばいで検索を繰り返すものの、見つかるのはだいたい修論は何とかなるという訳の分からない体験談ばかり。
私が欲しい体験談は、修論を"終わらせられなかった"けど人生何とかなるという体験談であって、修論終わったけど何とかなるなんてものはお呼びじゃないのだ。
もうこのころには修論鬱期がピークに達しており、修論を終わらせるというシナリオが自分の中では全く見えなくなっていった。
寝てるのか起きているのかわからない状態でパソコンに向かい続ける日々。
部屋から一歩も出なかった日が何日も続いた。
気が付くと提出まであと二週間となっていた。
夢の中で修論を書く。
修論鬱期の末期である。
夢の中にまで修論が登場してくる。
もはや進展状況など気にする余裕もなく、思いのたけをひたすら書きなぐる作業。
後から、論理の矛盾は直すことにしてとりあえず書き切ることだけに集中していた。
その間も、指導教官とアポイントを取ってアドバイスを受けるなどしていたものの、ダメ出しをもらうたびに崩壊する論理。
せっかく書いた章をまるまる削除したときは、逆にもはや笑いがこぼれた。
朝と夜という概念は消え、午前4時に同級生と泣き言をラインし合う。
これが、論文を書くということなんや。
正直言ってこのラスト数週間くらいの記憶はあまりない。
祖父に会う
ほぼ記憶がない中で、唯一心に残っている出来事がある。
それはもはや昼も夜も消失したうえで論文に取り掛かっていたある夜であった。
気が付くと眠りについており、夢を見ていたようであった。
するとそこには7年ほど前に亡くなった祖父の姿が。
祖父は私を見つめながら笑っていた。
パッと目が覚めると不思議な安心感につつまれていた。
あまりにも不甲斐ない私に祖父がしびれをきらしていたのだろうか。
感情の消失
修論鬱期の完全に終末期は、感情の消失がみられる。
焦りや悲しみ、過去の自分への怒りなどすべての感情が消えうせ、悟りの境地に達するのである。
ここの段階では、人間にもはや苦しみは存在せず、ただひたすら論文を書くロボットになるのである。
このロボット状態では、文字通り朝から晩までパソコンの前に座り続け論文を執筆し続けることが可能となっていた。
さらに集中力が異常に高まっていたおかげかそれまでに執筆した部分の論理的矛盾や誤植なども一気に発見できるようになり、作業が飛躍的に進んだ。
気が付くと締め切りまであと一週間。
仮の姿ではあるが論文は完成していた。
教官披露宴
もはや仮完成したところで、何の感情も生まれなかった。
嬉しいとも悲しいとも何も思わず、見せたらヤバいかななどと考える間もなく教官に送り付けた。
反応を待つ間もなく、脚注、参考文献の整理、そして読みたくもない自分の論文を読み返してはつづりのチェック、論理のチェック、要旨の作成。
もはや達成感などという文字は浮かばずただひたすら修論をチェックする作業。
教官から返ってきたほぼ赤色で埋め尽くされた論文を真顔で受け止めながら、それをまた直す。
直したものを教官に再び投げつける。
ラスト一週間は一瞬で過ぎ去っていった。
そして感動のゴールへ
最終日、製本をして事務室に提出すればゴールである。
何とか形にはできたもののコンテンツに全く自信はない。
しかし自信がないとかいう前に出さないと死ぬのであるから、出すしかない。
印刷するまではこんな枚数のものを自分が書いていたとはとても思えなかったが、気が付くと分厚い紙の塊が生まれていた。
さっそく一ページ目にミスを発見したため、そこだけ大急ぎで直して再び印刷。
製本作業は初めてでなかなか手こずったが、同期の力を借りながらなんとか終了。
事務室へ直行し、提出したのだが。
私の論文の表紙を3000回くらい確認する事務の方。
「あのー、研究科名間違ってるんですけど?」
何ということか。
私は私が所属していた研究科の名前を間違って印刷し製本してしまっていた。
あ、あ、あ、あ、あ、あ、のどうすればばばばばい、い、い、い、い、んですかか
震えが止まらない。
パニックになりながらも、解決策を聞く。
別紙に印刷して研究科の名前部分だけ上から貼りなおせばよいらしい。
走って印刷室へ向かう。
最終日だけあって、印刷は混雑していた。
一秒でも提出に遅れれば、修論提出は認められない。
あと3時間、焦りは止まらない。
なんとか直して再び事務室へ。
再び私の論文の表紙を3000回くらい確認する事務の方。
「あのー、学籍番号間違ってるんですけど?」
あぁ’’ぁぁあああ’’’’あああぁl?
なぜ一回目の提出で指摘しなかった??
と他人のせいにする気持ちを抑え、あ、あ、ああああ、ああ、、あこ、こここここ、これも上から貼る感じですかね?とすかさず知ってるアピール。
「そうですね~お願いします。」
論文は何とかできたのにこんなしょうもないことで提出できなくなったらそれこそ万死に値する。
再び走って印刷室に向かうと先ほどより一層混雑していた。
印刷室の中で、ただ学籍番号を印刷しに来たアホは私くらいである。
何とか上から貼り直し、パッチワークになった論文表紙を手に再び事務室へ向かった。
三度目の正直、三度目の正直と願いながら論文セット一式を提出する。
すると一言。
「論文要旨に書いてある論文タイトル間違ってませんか?」
はい。
もはや聞くまでもなく印刷室へ直行であった。
残りは一時間、こんな調子で一つずつ間違いを指摘されていたら次に何かミスを犯したら私は提出に間に合わないのではないだろうか。
ステップを一つずつ越えていかないと提出にたどり着かない。
もはや事務の方は私を育成する喜びを感じているのではないだろうか。
少しずつハードルをクリアするけなげな少年。
必死に論文を提出するその姿に心を打たれたに違いない。
論文要旨を直して四度目に事務室へ向かったときにはもはや事務の方も失笑であった。
「お疲れ様です。受け付けました。」
この言葉を聞いて私は修論を終えた。
忘却の彼方から
気が付くと修論を提出してから早一か月ほどが経過しようとしていた。
怒涛の日々は過ぎ去り、平穏な日常を取り戻していたように思えた。
しかし、なんと恐ろしいことに修論は提出するだけでは終わりではないのだ。
修論審査というラスボスを倒さなければ修士号を得ることができない。
そのラストステージでは、主査、副査の先生方を前に自分の論文をDefendし、自身が修士号に値する人間であることを証明しなければならないのだ。
完全に退化していた脳を再びよみがえらせ、自身の論文を何とか説得的に説明しなければならないという恐怖オブ恐怖のイベント。
修論審査は目前に迫っていた。
学術界への貢献
修論審査ではなかなかに厳しい意見を大量に頂戴した。
しかし、どれもまさにそうだと思いますとしか言いようがなく、自分の論文の弱さ、甘さを余すところなく突いてくるものであった。
さらに、学術界への貢献という点に関して、既存の理論的枠組みに大きく依拠しているところから新たな指針を打ち出せていないのではないかというドンピシャな部分まで指摘されてしまった。
国会答弁に臨む大臣の気持ちで、必死に言葉を発するも納得した雰囲気は皆無。
この段階で不合格が出たらどうなるのだろうなどと考え完全修論鬱期が再来してしまった。
時は流れ
春の訪れも予感させるような三月のある日、修論審査の合格発表が掲示された。
私の学籍番号はそこにはなかった。
という夢を何百回も繰り返し見ていたおかげで、すっかり自分で掲示を見るのが怖くなっていたが、同期が写真で送ってくれた写真には私の番号が載っていた。
こうして、私の大学院生活は終わりを告げたのであった。
報告のメールを指導教官に送ると、「よくまとまっていて、あと少しで研究科賞だったのですよ」という意外な言葉が。
本気なのかお世辞なのかは分からなかったが、さすがにこの時は涙が出てきた。
思い返すと
修論はやばい。
私の人生史上でも最強クラスのピンチであった。
しかし、いざ終わった立場から見るとたしかに何とかなるとしか言いようがないのである。
少なくとも修論に向き合ったあの日々で、私は超特定的な分野に関してではあるが異常に知識が増えたと思う。
以前は、大学院で何を研究しているのかと周囲の人に聞かれると、うまく答えられず恥ずかしい気持ちになっていたが、修論を終えた後は胸を張って研究内容についてべらべら語るようになっていった。
修士号などアカデミアの厳しさ、そしてやりがいのほんの始まりにすぎない。
しかし、論文を書き上げ、修士号を取得したというその事実こそが私の一生に残る貴重な経験となったのである。
いま、「修論 やばい」で検索をかけている修論鬱期の大学院生にはぜひとも自分を信じて駆け抜けていってほしいと願うばかりなのだ。
ブハラのハラ
砂漠の古都
殺人的な太陽光が私の皮膚を突き刺す。
流れ出る汗すらすぐに乾いてしまうような圧倒的な熱気。
私は、ウズベキスタンの古都ブハラに到着した。
駅から街の中心に向かう車窓から見えるのは灼熱の砂漠。砂煙
ブハラはまさに砂漠のオアシスであった。
それはまるで街全体に茶色の塵のフィルターがかかっているかのような雰囲気であった。
これぞまさに私が想像していた「大陸」の姿である。
ウズベキスタンの大地、そのほぼ中心に位置するブハラは、シルクロードの要衝として栄えてきたオアシス都市である。
その前に訪れたサマルカンドも素晴らしかったものの、意外と大都会であるという点に少し拍子抜けしていたため、ブハラのようなより「リアル」な雰囲気のオアシス都市に私の心はワクワクしていた。
しかし、心の高まりと反比例するように、体は不調を訴えていたのであった。
腹痛
思えば、なぜサラダなんて頼んでしまったのだろうか。
ブハラ以前に滞在していたサマルカンドでのことだった。
肉と炭水化物の山盛り料理の繰り返しに辟易していた私は、サラダを注文した。
ウズベキスタンのレストランで料理を注文すると、だいたいは肉、そしてナンの王道セットになってしまう。
味は美味しいのだが、なかなか野菜が食べられないので困っていたのだ。
外国で生ものを頼むなんて非常識じゃないか、自分でもそう思った。
しかしすでに滞在一週間目を迎えようとしていたころ、今まで下さなかったのだからどうにかなるだろうという油断があった。
サマルカンド滞在中は特に何も感じなかったのだが、ブハラへ向かう電車に乗ったあたりから腹のあたりが無性に気持ちが悪くなってきていた。
ブハラに到着すると、痛みが激しくなっており、私は宿に到着早々トイレで盛大に下してしまった。
生ものは、サマルカンドで食べたサラダ以外思い当たる節がない。
私は、サラダにやられてしまったのだ。
一歩進むごとに腹痛である。
冗談ではないくらい痛むが、何とか観光に出かけようと外へ出る。
ただでさえ気候が苛烈な砂漠地帯、太陽は容赦なく私の体力を奪っていく。
宿のロケーションも今思うと失敗であった。
住宅街の一本道をひたすら20分ほど歩かない限り、中心部には到着しない。
これは何を意味するか。
宿を一歩出てしまうと、次のトイレまで20分我慢し続けなけらばならないのだ。
この時の私の状況と言えば、耐えず腹痛に襲われ、数分に一回は漏らしてしまいそうな波が来るというまさに世紀末。
どう考えても観光などしている場合ではないのだが、そこは若さゆえの過ち。
フラフラとゾンビのような姿でただ歩き続けたのであった。
追い打ち
私はまさに虫の息でフラフラと中心街をさまよっていた。
レストランでものを食べる気力など湧くはずもなく、公衆トイレを見つけては入り、トイレ目的で博物館に入ったり、カフェに立ち寄ったり、思考の全てが腹痛に支配されていた。
そんな時であった、地元風の男性集団に声をかけられた。
「あqwせdrftgyふじこp;????」
何を言っているか全くわからない。
何を言っているか全くわからないこと自体はウズベキスタンに来てからも何千回か経験していたのでいいのだが、どうやら彼らは私に何かを訪ねているようだ。
すると彼らが急に「こーりあー?」「ちゃーいなー?」と確認を始めた。
私が「ジャパン」と答えるとたいそう満足げに微笑み私の体をガッとつかんだ。
相手は屈強な男性四人。
腹は相変わらず限界だったが、彼らがついてこいと言うのでとぼとぼと歩いて行ったのであった。
カラカルパクスタン
ほぼ通じ合わない会話であったものの、どうやら男性たち自身も旅行者であったようであることは分かった。
彼らはウズベキスタン人であるものの、カラカルパクスタン共和国という少し自治制の高く独自の言語や文化を持つ地域からブハラへと旅行しに来たようであった。
道行くウズベキスタン人に「俺たちはカラカルパクスタンから来たんだ!!」と主張しまくっており、現地のウズベキスタン人からも驚かれていた。
彼らについていくと城壁にたどりついた。
相変わらず腹の具合は限界だったものの彼らがなかなかにフレンドリーで全く離してくれない。
チケットはウズベキスタン人と外国人とで料金が違うようであったが、彼らと一緒に入場したところなぜかチケットの確認すらされなかった。
彼らは英語を介さないし、私もウズベク語は分からない。
しかし、なんだか一緒にいてとても面白いのである。
やんちゃというか無邪気というか、(無謀というか)、規制線が張られたところにもズンズン入っていってしまうし、お土産物の帽子をかぶったままどこかに行こうとするし、「いい大人」である年齢でも自由ではつらつとしている彼らの姿になんだか無性に親しみを覚えたのである。
世界は広い
こんなに短い出会いでこんなに感傷的になるのもナイーブだと自分でも思う。
しかし、もし自分がカラカルパクスタンに生まれていたらどんな人生を歩んでいたのだろうか・・・などという想像が止まらなくなった。
彼らのうちでスマホを持っているのは一人。
日本ではもう見ないような古さのガラケーを持っているのがもう一人。
かたや、学生の分際でアルバイト代でスマホはおろか、ウズベキスタン旅行費を捻出できている自分。
でも心に何となく余裕がないのは自分。
何をしても楽しそうに笑っているのは彼ら。
不思議なものである。
ひとしきりブハラの名所を一緒に回ったあと、小さな商店に寄った。
店を出た彼らが手にしていたのは5本分のジュース。
もちろん1本は私にくれた。
野暮だと思いながらお金を渡そうとしても絶対に受け取らない。
ジュースは甘すぎるくらい甘かったけれど、とても美味しかった。
彼らはこの後、カラカルパクスタンに戻らなくてはならないようで、出発のため宿に戻ると言っていた。
あっという間の数時間であったが、強く心に残る出会いとなった。
旅とは出会いと別れの繰り返しである。
彼らと会うことは二度とないかもしれない。
しかし、思い出はずっと残っていくのである。
ブハラの思い出は、彼らの笑顔と共に心に刻まれたのであった。
あああああぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!
彼らにもらったジュースを飲み終えて感傷に浸っていたところであった。
彼らと一緒に行動しているうちに何となく意識の外にあったアレである。
そう、腹痛。
ついにやってしまった。
涙目で有料トイレに駆け込みながらパンツを脱ぎ捨てた。
ブハラの思い出は(茶色いフィルターがかかりながらも)彼らの笑顔と共に心に刻まれたのであった。
私立中学で不登校になった話(2)
サッカーの事件から早くも一か月が経っていた。
学校に行かない生活は、苦難の連続であった。
まず、近所の目が辛い。
外に気晴らしに出かけようとしても、近所の人から「今日は学校お休み?」などと聞かれた日には頭は真っ白、その日一日中気分は真っ暗である。
それに、学校のカリキュラムから離れると驚くほど勉強もはかどらない。
数学や理科なんてもとからモチベーションが低かったが、まして家でやろうとする気もなかなかおきない。
家に電話がかかってくるたびに、学校から何かの知らせがあるのではないか、とびくびくする日々。
学校の束縛から離れたいと思って登校するのをやめたのにもかかわらず、頭の中は学校のことでいっぱいであった。
そんな生活の中でも唯一楽しいと思えたことがある。
インターネットだ。
家から出るのもおっくう、しかし自分の意識を学校ではないどこか遠くへ持っていきたい、そんな風に考えた私はインターネットにのめりこんでいった。
引きこもりとインターネットとの相性は切っても切れない関係にあるといえる。
外の世界に出なくとも外の世界の状況を知ることが出来るツールを利用しない手はないのだ。
私は、当時家にあったオンボロノートパソコンを引っ張り出し、それをほぼ自分のものとしながら連日インターネットにいそしんでいた。
インターネットでやることといえば、朝から晩まで動画サイトに入り浸ったり、まとめサイトを見てみたり、生産性のかけらもないことばかりであった。
ある日のことである。
動画サイトでおすすめの動画にアメリカのコンテンツが登場したことがあった。
何気なく見てみると、何を言っているかさっぱりわからない。
さっぱりわからないのに、人々は笑っている。
なんだか無性に悔しくなった。
英語は私が最もコンプレックスを感じている分野であった。
だからこそ、英語が全然わからないという状況に人一倍悔しさを覚えたのだ。
こんな風にインターネットをやればやるほど、英語の情報源がどれほど広大であるかを思い知らされていくようになっていった。
気が付くと
インターネットで確認するのは英語のコンテンツばかりに。
勉強はまったく手を付ける気が起きなかったものの、英語だけはやる気があふれていた。
次第に、ただ勉強するだけではつまらないと感じるようになり、英語のチャットサイトに入り浸るようになっていった。
英語のチャットサイトとは、ランダムに世界中にいる相手とつながり、チャットを楽しむというサイトのことである。
現在は残念ながらそういったサイトのほとんどがアダルト系の要素満点になっているが、当時はウェブカメラの普及等も少なかったことがあり、文字だけのチャットも十分流行していた。
チャットサイトでは世界中の人と会話を楽しむことが出来る。
しかもチャットではレスポンスが早くないと会話が成立しない。
文法がこうなって、単語をこの順番で並べて、、などと考えているうちにチャットは進行してしまうのだ。
このプレッシャーが私の英語力を飛躍的に伸ばした。
チャットしている時だけは自分が外の世界とつながっていられる気がしていた。
英語は世界とつながるツールだと痛感するようになった。
もはや、英語に関しては学校に行っているよりはるかに自分で学習することが出来ていた自信があった。
すると、英語だけではなく、気が付くと他の教科も自習で十分はかどっているということに気が付いた。
集団授業では何となく話を聞いて何となくうとうととして、何となくテストを受けて、の繰り返しであったが、自習する限りでは自分でわかるまで考えるからだ。
それに、周りの生徒との人間関係に悩むこともなくなったため自分のなかで勉強や趣味にリソースを割くことができるようになったのだ。
私は不登校に賛成である。
精神や身体に害が及ぶ危険性を負ってまで、学校から得られることはそこまでないのではないかと思うからである。
特に、生徒によっては学校と離れた状態で生活することで、能力を伸ばすことができる可能性もあるのではないかと感じる。
見違えて生活にハリがでてきたようにも思えるが、不登校最後の難関が訪れようとしていた。
それは、「復帰」である。
私の中高一貫校では、高校には基本的に誰でも進学できることになっていた。
しかし、このままずるずると欠席日数が伸びてくると、高校に入った後はなかなか進級等を認めるのは厳しいという通知を受けた。
ついに、復帰を検討するときが来てしまったのだ。
私を「からかって」きた奴らとの対峙、そしてほぼ一年にわたる授業未履修のブランク、大学受験のプレッシャー、戦わなければならないことは山ほどあったのである。