古代への情熱
その日私は、トルコ共和国チャナッカレ市にいた。
高速バスに揺られて4時間。ついにエーゲ海に到達した。
エーゲ海は、想像よりも荒涼としていて寒々としていた。
チャナッカレは悠久の歴史を刻む北西トルコの入り口である。
イスタンブールやブルサといったそれまでに訪れていたトルコの大都市と比べると町のサイズは比較にならないほど小さい。
それは私の母の実家である鎌倉市をほうふつとさせるような、こじんまりとした港町である。
私は、チャナッカレに到達したら何よりも行きたいところがあった。
トロイア遺跡である。
古代への情熱
シュリーマンをご存知であろうか。
世界史を履修した人ならば、授業の初期に必ず名前が出てくる人物である。
シュリーマンはドイツの実業家であった。
彼は、ビジネスの世界に身を置きながらも幼少時に耳にしていた古代ギリシャ詩作品集「イーリアス」の感動を忘れることができず、考古学の道へと進んだ。
シュリーマンが実際に発掘を行うまで、トロイアは伝説上の架空都市にすぎないとする見方が支配的であった。
しかし、シュリーマンは夢を追い続け、ついにトルコ北西部にて遺跡を発掘したのであった。
その半生を記した自伝が「古代への情熱」である。
このストーリーと、自伝のタイトルを聞いただけで涙がこぼれてしまいそうになる。
信念を持って、情熱を注ぎ続ければ夢は成就する。
そんな、熱い人生を生きた一人の男性の物語がトロイア遺跡にはあるのだ。
私は、シュリーマンが人生をささげたトロイア遺跡にどうしても行ってみたかったのだ。
トロイア遺跡は、チャナッカレ市内の乗り場からミニバスで30分ほど走ったところにある。
私は朝一のミニバスに乗り込み、無事トロイアへと出発したのであったが・・・。
出発後20秒後、そういえば料金をまだ払ってないななどと思いながら、何気なく財布を確認すると、
ない。
あれ、財布がない。
このままだと無賃乗車になってしまう。
そう思った私は、英語がほとんど通じないドライバーと周囲の乗客に「降ります」と一億回くらい伝え、即座に下車した。
さいわい、ミニバスは乗り場から公道に出てすらいなかった。
財布がない。
血の気が引けながらも自分がホテルから乗り場に来るまでの道を血眼になって逆走する。
海外で、財布を落とすなんて冗談じゃない。
クレジットカードはおろか、持っているほぼ全財産が入っている財布を失ったら空港にすらたどり着けない。
どうしよう。
そんな思いで頭がいっぱいになっていた。
もう一度確かめようと思って路上で鞄を全てひっくり返す。
鞄のわきについている小さなポケットも開ける。
まさかこんなところに入れているはずが・・・。
はい、入れてました。
朝、所持金を確認するため財布を取り出し、無意識にそのポケットに財布を突っ込んでいたようであった。
気を取り直して、まるで何もなかったかのように再度バス乗り場へ。
さっきと全く同じ乗り場から同じバスに乗ればいいのである。
余裕の顔をしながらミニバスに乗り込むと、初老の男性が先客として乗っていた。
彼がトルコ語で何やら私に語り掛けてくる。
「くぁwせdrftgyふじこ...コントロールくぁwせdrftgyふじお.???」
コントロール...
すると彼は英語に切り替え、
「Did you pass the control?」
コントロール...
なんのことを言っているのだと思ったものの、うすうす見当はついていた。
コロナウイルスである。
私がトルコに滞在していた当時、トルコでは感染者ゼロ。
反面、中国をはじめとする東アジア諸国がコロナの猛威にさらされていた時期であった。
街中で露骨に嫌な思いをすることはなかったものの、心なしか人々の視線が東アジア人である私に突き刺さるような雰囲気が出ていたのだ。
その初老の男性も私に対して、東アジア人なのにどうやってここまで来れたのだというようなニュアンスを込めて質問してきたに違いない、私はそう思っていた。
何とか気まずい雰囲気になるのは避けようとフレンドリーに回答を試みる。
私はトルコ入国後からすでに結構な日数が経っていること。
空港設置のサーモグラフィー検査はパスしたこと。
男性と少しの英語とトルコ語で意思疎通をはかった。
まったく、さっきのバスに乗れていればバイキン扱いされて嫌な思いもすることはなかったのにな、などと思うようになっていた。
「コントロール」を抜けたという話が終わっても、男性はまだ私にいろいろと質問をしてくる。
どこから来た、何しに来た、どこの町に行く、なぜトロイアに行く。
彼は日常会話程度の英語を知っていたので、どんどんと私に質問を投げかけてくる。
ここは、入国審査じゃないんだけどな、トホホと思いながらもトロイアまでの道すがら彼と会話を続ける。
しかし、だんだんと会話をするにつれて、彼が私に質問しているのはコロナウイルスを警戒しているからというよりも、シンプルに興味本位からではないかと感じるようになっていた。
そして唐突に「ドイツ語は知っているか?」
と聞かれた。
「大学で少し学んだ」、と答える。
すると急にスイッチが入ったかのように流暢なドイツ語で私に質問を続けようとしてきた。
水を得た魚とはまさにこういうことである。
さっきまでの英語のたどたどしい一単語一単語ぶつ切りにして言うような話し方から、流れるようなドイツ語へと切り替えたのだ。
大学の第二外国語の授業でドイツ語を学んだといっても、私が流暢に言える文は Das verstehe ich nichtだけである。意味は「私はそれの意味が分かりません。」である。
そんな絶望のドイツ語力の私に彼は嬉しそうにドイツ語をまくしたててきた。
冷静になって話を聞いてみると、彼はドイツで長く働いていたようであった。
そして、私は彼のことを完全に地元民だと思い込んでいたのだが、彼も海外在住トルコ人として久々に故郷トルコへ戻り、観光をしているということであった。
つまり、彼もいち観光客としてトロイア遺跡に向かっているのである。
最初の不安はどこへやら、その事実を知ると急に安心感が湧いてきた。
初老の男性は名をヤヒヤーと言い、ヤヒヤーと私は一緒にトロイア遺跡の観光をすることとなったのであった。
ヤヒヤーは私に話しかけてきたときのように、道行く外国人観光客にどんどんと話しかけていく。
ドイツ人の夫婦とすれ違ったときには、ドイツ語で長い間談笑を楽しんでいた。
ヤヒヤーはドイツで船の操縦士をしていたそうで、世界のさまざまな港を訪れた思いで話を遺跡までの道すがら聞かせてくれた。
トロイア遺跡は、いわゆる"がっかりスポット"であるということは知っていた。
たしかに、遺跡の現場に行ってみるとそこには取って付けたかのようなトロイの木馬が置いてあり、あとは広大な遺跡が漠然と広がっているだけのように見えた。
私がいたく感動していたシュリーマンのトロイア遺跡発掘であったが、実態は考古学の素人が十分な遺跡の保全をせずに行ったものであり、それが現在にまで至る遺跡に関する考証の困難性につながっているのだという。
私たちは遺跡本体の観光を終え、近隣にある博物館を訪れた。
田舎町トロイアには似つかわしくないようなとてもモダンで洗練された歴史博物館であった。
数々の興味深い展示物が、所狭しと並んでいる姿は圧巻であった。
トルコの悠久の歴史の一片を感じ取った気がした。
ヤヒヤーはトロイアの歴史について博物館の展示を指しながら詳細に説明を加えてくれた。
トロイア遺跡は「イリアース」を信じ続けたドイツ人が発掘したこと。
私が知っているストーリーについても言及があった。
ヤヒヤーは常に笑顔をたたえていたのだが、博物館のあるコーナーを見て、急に顔色が変わった。
そこには、トロイア遺跡から発掘されたものの外国へ流出した文化財の展示がなされていた。
このコーナーを見るなり彼はここに釘付けとなっていた。
一つ一つの文化財を行ったり来たりしながら何回も眺める。
そしてつぶやくのである。
Shade!
ドイツ語で残念という意味だ。
「失われた財物」はドイツの博物館やロシアの博物館で展示されているものが多いようだ。
これほど多くの貴重な文化財が外国へ流出してしまったという事実は外国人である私にとってもなかなか驚きであった。
彼はこの事実に人一倍心を打たれたようであった。
その後も、しきりにこのコーナーに戻ってきてはShade!と繰り返すヤヒヤーは、怒りが収まらず、館内にあるシュリーマンの写真を見てはSchwein!と叫んだのであった。
Schweinとはドイツ語で豚のことだ。
ヤヒヤーのあまりの豹変ぶりに驚いた一方で、私はシュリーマンの「古代への情熱」に対してはじめて不信感を抱いた。
たしかに、幼少時に聞いた古代ギリシャ詩を忘れることなく、情熱を追い続けた彼のストーリーはとても感動的である。
げんに、遠く離れた異国の高校生が世界史の授業でみな「シュリーマン」の名を習っているのだからとてつもない偉業である。
一方で、その「偉業」の裏にはトルコの人々がいたのである。
彼らは、突然やってきたドイツ人が自分たちの故郷から、貴重な財物をどんどんと海外へと運んでいくのをみて何を思ったのであろうか。
オスマン朝も流出を指をくわえて見ていたわけではなかったようだが、結局のところ貴重な財物の国外流出は避けられなかったようだ。
ヤヒヤーの反応は極端とはいえ、トルコ人のサイドから見たシュリーマンの物語をよく示していたようにも思った。
怒り冷めやまないヤヒヤーと博物館の外に出るとずぶ濡れの雨が降っていた。
私たちは村の中心へと大急ぎで向かった。
ヤヒヤーは持ち前の積極性を発揮し、村の老人に何やらトルコ語で質問をする。
老人は我々を手招きでカフェに連れて行ってくれた。
そこで温かいお茶とハンバーグをいただきながら、村の老人とヤヒヤーが会話するのを聞いていた。
ヤヒヤーはどうやら、村の現状について尋ねていたようである。
かろうじて理解したところによると、子供は学校のため村から出ていかざるを得ず、また親世代の若者も仕事のために村から出て行っているようである。
結果としてトロイの村には老人ばかりが残っているそうだ。
たしかに、チャナッカレからわずか30分という立地にありながらトロイはかなりの田舎であるように見えた。
食事も終わり、去ろうとすると、ヤヒヤーが会計を済ませていた。
出してもらうなんて悪いと後からお金を渡そうとしたもののヤヒヤーは全くお金を受け取ろうとしない。
結局、お昼はおごってもらうことにになった。
その後、村の老人と共に別の集会所へ向かう。
ふたたび温かいお茶が出てくる。
ヤヒヤーはここでも知らない人たちにどんどんと話しかけ、何やら盛り上がっていた。
集会所を見回すと、誰もかれもが老人世代。
若者人口が多いトルコでは、ここまで老人が密集したコミュニティもなかなか珍しいのではないかと思った。
ここでのひと時を終え、トロイの村を後にしようとトロイの村のバス乗り場へ。
バス乗り場の近くの壁にはシュリーマンの妻が、遺跡から発掘された財物を身に着けている写真が飾られていた。
Schwein!
ヤヒヤーは吐き捨てるようにその写真に向かって叫んでいた。
バスに乗ってチャナッカレへ。
下車するときにヤヒヤーは私の分の料金も支払っていた。
なぜヤヒヤーはここまで、私に優しくしてくれたのだろうか。
ウイルスを持っているかもしれない東洋からの旅行者にどうしてここまでしてくれたのだろうか。
チャナッカレ到着後、港へ船に乗りに行くというヤヒヤーにどうしても聞きたくなった。
彼はこともなげに「日本が好きだからね」と言った。
果たして、彼が本気で日本のことを好きだったのかは未だに分からない。
ヤヒヤーと港近くのガリポリの戦いを記念した砲台の跡に差し掛かったとき、再び彼は何かスイッチが入ったように叫んだ。
Schwein! England Schwein!
ガリポリの戦いは第一次世界大戦中、イギリスをはじめとした連合国軍がオスマン帝国の首都イスタンブールを目指して行った上陸作戦である。
オスマン帝国軍の激しい抵抗にあい上陸は失敗に終わったが、両軍に多大な犠牲が出た20世紀を第業する戦いだ。
彼にとっては、そんなイギリスも"Schwein"だったようだ。
今日一日のヤヒヤーの行動を見て思ったことがあった。
相反する感情
ヤヒヤー自身、ドイツで長く働いていてドイツ人観光客に会ったときも嬉しそうにドイツ語で会話を楽しんでいた。
一方で、ヤヒヤーは博物館で西洋諸国へ流れていったトルコの財物に対して憎しみにも似た感情を吐露していた。
自分が働き、生活をしてきた場としての西洋。
トルコという東洋の国を蹂躙し続けてきた西洋。
ヤヒヤーは西洋に対して、一筋縄ではいかない感情を有しているように見えた。
「日本のことが好き」と言ってみたのもそんな西洋への反発心からであったのかもしれない。
Japonya'ya selamlar!
日本へよろしく!
そう言いながらヤヒヤーはチャナッカレの港へと去っていった。
しかしその「情熱」のうらには一筋縄ではいかない歴史が隠されていたのであった。