いってみた、やってみた

いってみた、やってみた

へなちょこ男が世界に挑む奮闘記(そして負けます)

修論がやばいあなたに

修論 やばい【検索】

秋口から冬にかけての風物詩である。

あぁ、修論

考えただけで胸がドキドキして鳥肌が立って夜も眠れなくなる、まるでそれは初恋の相手。

書かなきゃ、やらなきゃと思い続けるものの、文字数は一向に増えない。

そもそも文字数を増やしたところで、クオリティが伴っていないと落とされてしまうではないか。

モヤモヤだけが募り、修論 やばい【検索】を繰り返す日々。

参考にするのは数々の修羅場を潜り抜けた猛者たちの体験談。

自分も来年こそはあの偉大な猛者たちに並べるよう、修論を命がけで仕上げるのだ。

と誓ったあの日々から早数か月。

絶対無理と三秒に一回は思っていたが、気が付くと私の手には修士号の学位記が。

そう、私も猛者の仲間入りをしたのだ。

ここで私の修論スペックについて先に紹介しておきたい。

第一に、私は文系(社会科学系)である。

文系修士が圧倒的に少ない中で、このような体験談をシェアすることで文系の後輩たちへの参考になれば幸いである。また、文系以外でも一般的に修士論文とは何ぞやというところはかなりの部分共通しているのでそこに関してさまざまな専攻の方に何らかの希望を与えられればと思う。

第二に、私は締め切り一週間前には仮完成をさせていた。

これは、超ギリギリでもどうにかなったという体験談を欲するあなたには物足りないかもしれない。しかし、焦りや研究の進まなさ度合いでは相当に苦しんだ自信があるのでその点については共感をいただきたい。

 

油断の第一学年と春の恐怖

ハリーポッターと賢者の石みたい

「文系で大学院行くやつってモラトリアムの延長っしょ笑」という声を一億回くらい聞いてきたが、まさにそれは文系大学院生が修論に取り掛かっていない段階のことを指しているのではないかと思う。

修論に取り掛かっていない段階では、それなりに授業もあって発表もあって、レポートもあってと忙しさもあるが、社会人として朝から夕方まで毎日規則正しく働いている友人などと比べたら何とも怠惰に見えてしまうであろう。

実際に、私は怠惰であった。

修士論文を翌年に書かなければならないということは頭では分かっていたものの、なかなか具体的なリサーチクエスチョンをうまく設定できず、それでもまだまだどうにかなると思っていた。

結果として修士論文に直接役立ちそうな授業というよりは、興味のおもむくままにいろいろな授業を取っていた。

どの授業もそれなりにコミットメントは求められるし、すべてが楽勝というわけではなかったのだが、それでも学期が終わってしまえばあっという間に気持ちは緩んでしまう。

私の大学院一年生生活はそうやって幕を閉じようとしていたのであった・・。

しかし、である。

私の所属していた研究科では大学院二年生の春先に全員参加で構想発表会を行う必要があった。

構想発表会とは、どのようなテーマについて、どのようなリサーチクエスチョンを立て、どのように取り組んでいくか、また進展状況を教授陣、同期の学生たちに発表し、つるし上げ有益なコメントをいただく会である。

お、やばいと思ったときにはすでに一年生の後期も終わってはや2月。

構想発表は5月なのであと3か月くらいしかまともに取り掛かれない。

そこで私がとった驚愕の行動とは?

A. 二か月放置する。

これは修論イヤイヤ期である。

修論イヤイヤ期とは?

修論イヤイヤ期とは、「修論などこの世に存在しない」「私は毎日楽しく平和に暮らしていける」という謎の自己暗示をかけ、修論の存在を脳内から抹殺する時期のことを指す。

あと三か月でそれなりに方向性を固めなければならないという現実を無視して、2月、3月においては全く修論に関係のない経済の勉強をしてみたり、フランス語を始めたりと謎に充実した日々を過ごしていた。

しかし、ついに構想発表会があと一か月ほどに迫ってきた4月のある日、私は最初のハードルに差し掛かったのであった。

それは自ゼミ内での発表である。

指導教官と、同じゼミに所属している学生が、構想発表の練習会として私に発表する機会を与えてくれたのだ。

ゼミでの発表は一年生のときにも何回か行ったが、そこではまだ抽象的な方向性発表程度でよかったため、本格的な発表はこの機会が初めてとなる。

この時点でゼミ発表まであと一週間。

知識ゼロ、進展ゼロ、焦り100000000。

果たしてどうなることやら。

諦めと失望

寝ずに準備してこれである。

発表し終わった瞬間の「こいつ何言ってんだ」というゼミの空気が恐ろしかった。

肩をがっくり落とすとはまさにこういうこと。

リサーチクエスチョンが極めてあいまいなまま特攻してしまったため、何がやりたいのかわからないという質問が相次いだ。

何がやりたいのかわからないと言われ続けると、確かに自分でも何がやりたいのかわからない。

しかし何をどうすればいいのかもわからない。

分からないが分からないを呼んでカオスを生み出している。

分からないということは分かっている。

自分が無知であるということは知っている。

それはまさにソクラテス状態。

こんな体たらくで構想発表会なんてとても無理。

それどころか今年度卒業するのはたぶん無理じゃないかなどと考え始めるようになってしまった。

修論鬱期

修論鬱期の到来である。修論鬱期は、基本的に修論を書き終える瞬間まで継続するものなので、修論鬱期の到来をもって私は真の修論戦士となったといえるであろう。

修論鬱期の最初期段階としては、先生や先輩に修論に関してボロクソ言われ、やる気をなくす→無理だと悲観的になる→修論つらいやばいとなる思考プロセスが有名である。

私は自ゼミでの発表以降すっかり修論を書き上げるのは無理ではないかという鬱モードに入ってしまった。

しかし、今思い返すと、である。

自ゼミでボロボロに叩かれなければほぼエンジンはかからないままだらだらと構想発表会へと突入していたであろう。

タイミングがいつであるのかということであって、構想発表会にしろ自ゼミでにしろボロボロに叩かれることは決定していたように思う。

そもそも、あれほど何もやっていなかったのにいきなりちょっと徹夜しただけで修論の方向性が決まるなら今頃既に私は教授職に就いているほど優秀な研究者であろう。

そこから一か月の集中は自分でも引くほどものすごいものがあった。

まさに、無知の知という状態。

自分が何もわかっていないことを自覚したからこそ、何とかそれを打破しなければならないという思考回路に至ったのだ。

朝も夜中も論文を集めては、どうにか参考にできないか思案する日々。

しかし、論文を読んでもさっぱりわからないことだらけ。

わからないことの上にわからないことが積み重なるので、読めば読むほど超巨大なわからないマウンテンが形成されていくのである。

わからない。なにもわからない。

わからないことはわかっている。

脳内でグルグルと回る思考。

構想発表会は迫っていた。

こんなに目覚めたくないと思った朝もない。

泣いても笑っても時間というものは経過してしまうのである。

気が付くと構想発表会当日になってしまった。

構想というにはあまりにぼんやりとした計画。

一か月の地獄の追い込みも叶わず、ついにここで息絶える。城之内、死す!

始まる前から葬式のような気分で構想発表会に臨んだのだが、他の学生の発表を聞いて気付いたことがある。

みんな意外と進んでないゾ

私は、当然私が研究科一のクズだという気持ちで構想発表会に臨んだのだが、レジュメを見た限りでも発表を聞いた限りでも、感心するほどの進展を見せている学生はほとんどいない。

教授陣に鋭い指摘を受けると黙りこくってしまう学生、リサーチクエスチョンが上手く説明できていない学生。

私は勝機を見出した。

構想発表会もついに私のターンがやってきた。

発表を終えると、教授陣の目からはあふれでる涙が。

周りに座っていた同期の学生たちも私を憧れのまなざしで眺めている。

私のあまりに素晴らしい構想発表に、会場の雰囲気は一変した。

という妄想をしながら、私は発表に臨んでいた。

案の定、教授陣からは厳しい指摘が相次ぐ。

ここで、私は「無知の知」戦法を取ることにしていた。

私は、自分が分かっていないということは分かっている。

だから、分かるようにするために教授陣に教えを請いたいという極めて前向きかつ現状に即した対応だ。

質問が来るたびに「私は細かい知識はないけれども学ぶ意欲はある」という姿勢を見せつける。

教授陣も「こういう方面を見てみればいいんじゃない?」「この論文読んだ方がいいよ」「そのやり方よりこっちの方がいいと思う」と有益なアドバイスをどんどん飛ばしてくる。

お客様の声が企業を一番成長させる、ってどっかのイケイケ社長もテレビで言っていたじゃないか。

私の修論も、教授陣の「お客様の声」を反映して成長するのだ。

あぁ、これがアカデミア。

私の構想発表は、拍子抜けするほど和やかに終わってしまったのであった。

修論蜜月期と絶望の夏

構想発表会が終わってからの二か月は自分が無敵なのではないかと錯覚してしまうような希望にあふれた日々であった。

思わず毎日散歩に出かけたり、新たにインターンシップを始めたり、トルコ語のマンツーマンレッスンを始めたりなど修論以外のイベントを充実させていた。

この時期は、修論鬱期の中に到来する修論そう期であろう。

少しの達成感を過剰に拡大解釈することで、自分はすべてうまくいくと勘違いをし、修論への恐怖が和らいでしまうのだ。

しかし、この時期はあくまで修論鬱期の中にあるものであり、修論自体が何らの進展も見せていないことから少しも自体が好転していないことに注意が必要だ。

ついに夏休みの到来である。

修論の天王山。夏休み。

ここで何らかの進展を得られなければ、冬に迫る修論締め切りに間に合わせるのは厳しくなってくる大切な時期である。

そんな時期に私が取った行動は?

A. ウズベキスタン旅行に出かける。

焦りのサマルカンド

ウズベキスタンには以前から行ってみたいと思っていた。

そして、この夏が自分の学生人生ラストの夏休みとなるということに気づいてしまったのだ。

行かぬわけにはいかぬ。

私は、迫りくる修論の恐怖を日本に捨て、遥かウズベキスタンへと旅立ったのであった。

ウズベキスタンでの日々は、あんなことこんなことがあってとても充実していた。

修論の恐怖は全て日本に置いてきたと思っていたものの、やはりフラッシュバックのように突然浮かんでくる。

何を隠そう夏休みが終わった直後には、中間発表会が迫っていたのである。

構想発表会の辛さを1とすれば、中間発表会の辛さは100000000000。

号泣させられた先輩の都市伝説など、恐怖ストーリーに事欠かない地獄のイベントである。

サマルカンドの美しい世界遺産

目に映るは悠久の歴史を刻む遺跡。

脳内に浮かぶは修論の二文字。

不安にかられサマルカンドのかつての中心アフラシヤブの丘で「修論 やばい」と検索したのは人類史上私が初めてではないだろうか。

絶望帰国

そうこうしているうちに私のウズベキスタンでのひと夏は終わりを迎えた。

気が付くと、中間発表会まであと一か月。

中間発表会にあっては何らかの結果を出していなければならない。

しかし、この時点で構想発表会からの進展はほぼない。

地獄の日々が再び始まったのであった。

帰国直後のある日、指導教官が私に夏休みの進展状況を尋ねるメールを送ってきた。

万事休す。城之内死す!

私はここですべてを受け入れることとした。

のび太くん戦法

そう、のび太くん戦法である。

出来てるふり、分かっているふりをやめ、ドラえもんに頼るのび太くんになるのだ。

私は覚悟を決め、指導教官とのアポイントメントを取った。

指導教官との面談では、ボロクソに叩かれケチョンケチョンにされると思っていたのだが、特にそういうこともなく、冷静に多くのアドバイスをいただいた。

のび太くん戦法が功を奏したようだ。

のび太くんは、どんなひみつ道具があって、どういうことができるかについては全く知識を有さない。

しかし、彼は、問題点がどこにあるかを知っている。

スネ夫が旅行に出かけて悔しいから僕も行きたい。

ジャイアンに殴られたから仕返ししたい。

ドラえもんはこのような具体的問題点を聞いたうえでその解決策となるひみつ道具を紹介するのである。

私は、結果らしい結果も進展も生まれていないないという現状の問題点をありのままに伝え、それを解決するためのひみつ道具の提供を指導教官に求めたのである。

怒涛の追い込みと魔女裁判

自分がダメダメのび太くんであるということを指導教官にカミングアウトした後は、気持ちがかなり楽になった。

もうこれで進展を偽る必要もないわけだし、アドバイスも得られた。

問題は、中間発表を乗り越え、修論の本格的な執筆にさっさと取り掛かることである。

私はここで、自身の修論のゴールを設定することとした。

修士論文にはオリジナリティが求められるとよく言われている。

当然、研究の結果は何らかの新たな知見を学術界にもたらさすものでなければ意味がないからである。

私は、このオリジナリティの呪縛に囚われていた。

つまり、すべてを一から構築しなければ修士論文として意味がないと判断されるのではないかという思い込みである。

しかし、その分野の大家であるならまだしも一学生がすべてをゼロから生み出すというのは妄想の寄せ集めのようなものでむしろ信ぴょう性に乏しい。

そこで私は、ベースとなる理論に関しては私よりも遥かに優れている大家の皆様の枠組みを採用すること(なぜ、その枠組みを採用するのかを適切な引用を用いて説明する必要はあるものの)で大幅に作業を簡略化し、取り扱うケースをそれまでほとんど議論されたことのないものに絞ることで、オリジナリティを出す方法をとることにした。

魔女裁判

悪名高き中間発表会がついに来てしまった。

相変わらず準備は全くできていないが、もはや特攻するしかない。

ここは何を言っても、否定され続けるいわば魔女裁判

目の前で他の学生たちが処刑されている。

構想発表会から大幅に進歩した者もいれば、あまり変化のない者もいる。

ただ一つ共通するのは全員が処刑されているということだけ。

私は晒上げられるかわいそうな魔法少女

お守り代わりに自分が書き集めてきたメモパッドを手に発表に臨んだ。

発表を終えると、次々に教授陣から質問を受ける。

突っ込まれたくないところばかりいろいろと指摘されてしまった。

やはりここは魔女裁判

何を言ってもつるし上げをくらうのだ。

、、、ん?

いや、待てよ。

突っ込まれたらいやだなというところばかり突っ込まれたというのは、そもそも私がした発表内容がある程度教授陣には通じているということか。

この発見は私にとって非常に大きいものであった。

やっと教授陣と同じ土俵にのれた感覚ができたのだ。

構想発表会では、方向性が定まっていなかったからこそ教授もアドバイスを与えるくらいしかすることがなかったのだ。

中間発表会でそれなりに意見をもらったということは、私の研究内容、結果がへぼいということは差し置いて、へぼいなりにやりたい方向性(とそれができていないこと)が伝わった証拠ではないか。

つまり、自分が頑張りさえすれば研究を良くしていけるというお墨付きを得たようなものだ。

この時の私の異常なプラス思考はおそらく数日まともに寝ていないという精神状態のたまものといえるが、なんだか急にどうにかなる気がしてきたのだ。

第二そう期とフィナーレ

中間発表会でそれなりにボコボコにされた私であったが、不思議とへこみはしなかった。

まさにこの時期は、修論第二そう期である。

いざ書き始めると、うまくはいかないものの何か進展を生み出しているという感覚があってやりがいは大いにあった。

あと三本くらいは修論がかけるかもしれないなどと妄想が膨らんだのもこの時期である。

この時期は理論的整合性を持ってある程度の長さの文章を書くことがいかに難しいか思い知る時期でもあった。

たったの数行先にもかかわらず矛盾を始める記述。

読んでも読んでも分からない先行研究。

集まらない資料。

冷静に考えるとヤバいとしか言いようがない状況ではあったものの、やっと修士論文の醍醐味に触れられたような気がしていた。

修論鬱期再来

やり始めはいつもなんでも楽しいものである。

何をやっても右肩上がりに成長していくからだ。

しかし、執筆開始から数週間たつとその手が完全に止まってしまった。

一週間近く何をやってもかけない。

論文も読めない。

完全に詰んだ状態である。

このときすでに締め切りまでは二か月半。

進展は20%といったところだろうか。

やっと先行研究が言わんとしていることがうっすら分かった段階で、自分が選んだケースを具体的に分析するところまでは全く至っていないという驚異の遅さ。

修論 やばい【検索】を一日に200回くらい繰り返していたのはこの時期だ。

修論を終わらせられなかった場合の人生について考える。

修論 やばいで検索を繰り返すものの、見つかるのはだいたい修論は何とかなるという訳の分からない体験談ばかり。

私が欲しい体験談は、修論を"終わらせられなかった"けど人生何とかなるという体験談であって、修論終わったけど何とかなるなんてものはお呼びじゃないのだ。

もうこのころには修論鬱期がピークに達しており、修論を終わらせるというシナリオが自分の中では全く見えなくなっていった。

寝てるのか起きているのかわからない状態でパソコンに向かい続ける日々。

部屋から一歩も出なかった日が何日も続いた。

気が付くと提出まであと二週間となっていた。

夢の中で修論を書く。

修論鬱期の末期である。

夢の中にまで修論が登場してくる。

寝ても覚めても修論である。

もはや進展状況など気にする余裕もなく、思いのたけをひたすら書きなぐる作業。

後から、論理の矛盾は直すことにしてとりあえず書き切ることだけに集中していた。

その間も、指導教官とアポイントを取ってアドバイスを受けるなどしていたものの、ダメ出しをもらうたびに崩壊する論理。

せっかく書いた章をまるまる削除したときは、逆にもはや笑いがこぼれた。

朝と夜という概念は消え、午前4時に同級生と泣き言をラインし合う。

これが、論文を書くということなんや。

正直言ってこのラスト数週間くらいの記憶はあまりない。

祖父に会う

ほぼ記憶がない中で、唯一心に残っている出来事がある。

それはもはや昼も夜も消失したうえで論文に取り掛かっていたある夜であった。

気が付くと眠りについており、夢を見ていたようであった。

するとそこには7年ほど前に亡くなった祖父の姿が。

祖父は私を見つめながら笑っていた。

パッと目が覚めると不思議な安心感につつまれていた。

あまりにも不甲斐ない私に祖父がしびれをきらしていたのだろうか。

感情の消失

修論鬱期の完全に終末期は、感情の消失がみられる。

焦りや悲しみ、過去の自分への怒りなどすべての感情が消えうせ、悟りの境地に達するのである。

ここの段階では、人間にもはや苦しみは存在せず、ただひたすら論文を書くロボットになるのである。

このロボット状態では、文字通り朝から晩までパソコンの前に座り続け論文を執筆し続けることが可能となっていた。

さらに集中力が異常に高まっていたおかげかそれまでに執筆した部分の論理的矛盾や誤植なども一気に発見できるようになり、作業が飛躍的に進んだ。

気が付くと締め切りまであと一週間。

仮の姿ではあるが論文は完成していた。

教官披露宴

もはや仮完成したところで、何の感情も生まれなかった。

嬉しいとも悲しいとも何も思わず、見せたらヤバいかななどと考える間もなく教官に送り付けた。

反応を待つ間もなく、脚注、参考文献の整理、そして読みたくもない自分の論文を読み返してはつづりのチェック、論理のチェック、要旨の作成。

もはや達成感などという文字は浮かばずただひたすら修論をチェックする作業。

教官から返ってきたほぼ赤色で埋め尽くされた論文を真顔で受け止めながら、それをまた直す。

直したものを教官に再び投げつける。

ラスト一週間は一瞬で過ぎ去っていった。

そして感動のゴールへ

最終日、製本をして事務室に提出すればゴールである。

何とか形にはできたもののコンテンツに全く自信はない。

しかし自信がないとかいう前に出さないと死ぬのであるから、出すしかない。

印刷するまではこんな枚数のものを自分が書いていたとはとても思えなかったが、気が付くと分厚い紙の塊が生まれていた。

さっそく一ページ目にミスを発見したため、そこだけ大急ぎで直して再び印刷。

製本作業は初めてでなかなか手こずったが、同期の力を借りながらなんとか終了。

事務室へ直行し、提出したのだが。

私の論文の表紙を3000回くらい確認する事務の方。

「あのー、研究科名間違ってるんですけど?」

何ということか。

私は私が所属していた研究科の名前を間違って印刷し製本してしまっていた。

あ、あ、あ、あ、あ、あ、のどうすればばばばばい、い、い、い、い、んですかか

震えが止まらない。

パニックになりながらも、解決策を聞く。

別紙に印刷して研究科の名前部分だけ上から貼りなおせばよいらしい。

走って印刷室へ向かう。

最終日だけあって、印刷は混雑していた。

一秒でも提出に遅れれば、修論提出は認められない。

あと3時間、焦りは止まらない。

なんとか直して再び事務室へ。

再び私の論文の表紙を3000回くらい確認する事務の方。

「あのー、学籍番号間違ってるんですけど?」

あぁ’’ぁぁあああ’’’’あああぁl?

なぜ一回目の提出で指摘しなかった??

と他人のせいにする気持ちを抑え、あ、あ、ああああ、ああ、、あこ、こここここ、これも上から貼る感じですかね?とすかさず知ってるアピール。

「そうですね~お願いします。」

論文は何とかできたのにこんなしょうもないことで提出できなくなったらそれこそ万死に値する。

再び走って印刷室に向かうと先ほどより一層混雑していた。

印刷室の中で、ただ学籍番号を印刷しに来たアホは私くらいである。

何とか上から貼り直し、パッチワークになった論文表紙を手に再び事務室へ向かった。

三度目の正直、三度目の正直と願いながら論文セット一式を提出する。

すると一言。

「論文要旨に書いてある論文タイトル間違ってませんか?」

はい。

もはや聞くまでもなく印刷室へ直行であった。

残りは一時間、こんな調子で一つずつ間違いを指摘されていたら次に何かミスを犯したら私は提出に間に合わないのではないだろうか。

ステップを一つずつ越えていかないと提出にたどり着かない。

もはや事務の方は私を育成する喜びを感じているのではないだろうか。

少しずつハードルをクリアするけなげな少年。

必死に論文を提出するその姿に心を打たれたに違いない。

論文要旨を直して四度目に事務室へ向かったときにはもはや事務の方も失笑であった。

「お疲れ様です。受け付けました。」

この言葉を聞いて私は修論を終えた。

忘却の彼方から

気が付くと修論を提出してから早一か月ほどが経過しようとしていた。

怒涛の日々は過ぎ去り、平穏な日常を取り戻していたように思えた。

しかし、なんと恐ろしいことに修論は提出するだけでは終わりではないのだ。

修論審査というラスボスを倒さなければ修士号を得ることができない。

そのラストステージでは、主査、副査の先生方を前に自分の論文をDefendし、自身が修士号に値する人間であることを証明しなければならないのだ。

完全に退化していた脳を再びよみがえらせ、自身の論文を何とか説得的に説明しなければならないという恐怖オブ恐怖のイベント。

修論審査は目前に迫っていた。

学術界への貢献

修論審査ではなかなかに厳しい意見を大量に頂戴した。

しかし、どれもまさにそうだと思いますとしか言いようがなく、自分の論文の弱さ、甘さを余すところなく突いてくるものであった。

さらに、学術界への貢献という点に関して、既存の理論的枠組みに大きく依拠しているところから新たな指針を打ち出せていないのではないかというドンピシャな部分まで指摘されてしまった。

国会答弁に臨む大臣の気持ちで、必死に言葉を発するも納得した雰囲気は皆無。

この段階で不合格が出たらどうなるのだろうなどと考え完全修論鬱期が再来してしまった。

時は流れ

春の訪れも予感させるような三月のある日、修論審査の合格発表が掲示された。

私の学籍番号はそこにはなかった。

という夢を何百回も繰り返し見ていたおかげで、すっかり自分で掲示を見るのが怖くなっていたが、同期が写真で送ってくれた写真には私の番号が載っていた。

こうして、私の大学院生活は終わりを告げたのであった。

報告のメールを指導教官に送ると、「よくまとまっていて、あと少しで研究科賞だったのですよ」という意外な言葉が。

本気なのかお世辞なのかは分からなかったが、さすがにこの時は涙が出てきた。

思い返すと

修論はやばい。

私の人生史上でも最強クラスのピンチであった。

しかし、いざ終わった立場から見るとたしかに何とかなるとしか言いようがないのである。

少なくとも修論に向き合ったあの日々で、私は超特定的な分野に関してではあるが異常に知識が増えたと思う。

以前は、大学院で何を研究しているのかと周囲の人に聞かれると、うまく答えられず恥ずかしい気持ちになっていたが、修論を終えた後は胸を張って研究内容についてべらべら語るようになっていった。

修士号などアカデミアの厳しさ、そしてやりがいのほんの始まりにすぎない。

しかし、論文を書き上げ、修士号を取得したというその事実こそが私の一生に残る貴重な経験となったのである。

いま、「修論 やばい」で検索をかけている修論鬱期の大学院生にはぜひとも自分を信じて駆け抜けていってほしいと願うばかりなのだ。