ニューヨークのアンニュイな夏
私とワールドトレードセンター
あの夏、私はワールドトレードセンター跡地にいた。
ニューヨーク、ワールドトレードセンター跡地を、その日も多くの人が訪れていた。
ガヤガヤとうるさいニューヨーク市には珍しく、辺りには不思議な静寂が広がっていた。
私は、モニュメントから流れる水をただ見つめていた。
眠れない夜
2001年9月11日、私は夜更かしをしていた。
理由は思い出せないが、なぜか夜になっても眠れなかったのである。
両親がNHKのニュースを見ていた。
映像がニューヨーク、ワールドトレードセンターに移り変わる。
私は目撃した。
二機目の航空機がビルへと吸い込まれていったのを。
何が起きているのか誰も分からない。
分かっているのは、ただ、今目の前で航空機がビルに突っ込んでいったということだけだ。
そして、ワールドトレードセンターは、アメリカの夢は、崩れ落ちた。
アメリカの夢
私たち一家は、1990年代の後半、ニューヨーク市郊外に居住していた。
父の仕事の都合でアメリカに転勤することとなったためだ。
私の物心は、そのアメリカ居住時代に始まる。
ケミカル臭が強いキャンディーの味、ディズニーの歌、ピザの箱を支えるプラスチックの部品、裸足で芝生に出ると烈火のごとく怒られること(ライム病の危険があるため)、目を合わせるとニコっとするアメリカ人の笑顔、今でも深く記憶に残っている。
生活は、毎日が楽しみに溢れていた。
冬になったらクリスマス用にもみの木を買いに行き、春になったらイースターだと言って卵に絵を描くのだ。夏になったら、超高性能水鉄砲で水遊びをして、秋になったら永久に広がる黄色と赤の森を駆け抜けるのだ。
一年、一か月、たとえ一時間であっても、子供にとっては永遠に感じるほどの時間である。
そんな幼少期の数年を過ごした土地に繋がりを感じるのは自然なことではないかと思う。
だから、当時、私は自分のことを間違いなくアメリカ人であると信じていたようである。
無理もない、記憶のあるうちはずっとアメリカで過ごしていたのだから。
ある日、私たち家族でニューヨークの街中へ出かけることになった。
当時私たちが住んでいたのは、ニューヨーク市郊外の住宅地であった。
ニューヨーク市中心部までは通勤電車で一時間ほどかかる、のどかな所であった。
私はまだ幼稚園児であったし、あまり遠くまで出かけたことはなかった。
だからこそ、ふだん郊外の風景しか知らない私にとってニューヨークの街中を見られるお出かけはとても特別な日であったのだ。
街に出るまでの電車、街のにおい、早歩きの人々、なんでも新鮮だった。
森の代わりに広がるビル群、鳴りやまないクラクション、こんなに大きな街がこの世界には存在するのかと驚きでいっぱいだった。
お出かけの一番の目的は、父の職場、ワールドトレードセンターを見学するためだった。
不思議とこの時の記憶は定かではない。
せいぜい展望台に登ったくらいだったと思う。
しかし、ニューヨークには、ワールドトレードセンターというとんでもなくスゴイビルがあるのだ、と感じたことは不思議と覚えている。
失意の帰国
私達は、父を残して2000年に帰国することとなった。
父が仕事をやめ、家族でアメリカにいる理由がなくなったためだ。
仕事の引継ぎと転職活動のため、父はしばらく単身でアメリカに残ることとなったのだが、自分をアメリカ人だと思い込んでいた私は、日本へ「帰る」ことに激しく抵抗した。
自分の知らない「ふるさと」に急に帰れと言われても混乱するだろう。
当時、私の日本への思い入れは非常に薄かったといえる。ほぼ日本語で生活していたにも関わらずである。
子どもが何を言おうと決まったことは決まったことである。
私は、結局失意のまま「ふるさと」日本へ帰国し、わずかな幼稚園生活と、来る小学校生活を送ることになったのであった。
父は、2001年4月に完全帰国した。
これで、私たち家族のアメリカ生活は完全に終了したのである。
数年間、思い返してみればわずかな時間である。
しかし、私の幼少期にとってアメリカで過ごした数年間はあまりにも大きく、いまでもしっかりと心に刻まれ続けているのである。
そんなアメリカ生活の終了からほどなくであった。
ワールドトレードセンターは崩れ落ちたのだ。
父が仕事を辞めていなかったら、引継ぎが長引いていたら、私たち一家はどうなっていたのだろうか。
あの夏、ようやく思考がまとまったように思う。
小学生の私は、まだその気持ちを表現することが出来なかった。
あの夏、気づいたのだ。
私にとって、ワールドトレードセンターはアメリカの夢だったのだ。
アメリカで過ごした夢のような日々、それはワールドトレードセンターそのものだったのだ。
日本でNHKからワールドトレードセンターの崩壊を見つめていたあの瞬間、それはまさにアメリカの夢が崩れ落ちる瞬間だったのだ。
後から聞くと父は仕事を「辞めた」というよりは「辞めさせられた」に近かったようである。
母は駐在妻のゆったりした暮らしを失い、姉は友達のいる小学校を離れた。
アメリカの夢が崩れたのは私だけではなかったのだ。
あの夏、私は、ワールドトレードセンターにいた。
アメリカの夢の跡を見つめていた。